1940年、外交官・杉原千畝が発給した「命のビザ」を握りしめ、約6000人のユダヤ難民が福井県の敦賀港に辿り着いた。そこからさかのぼること20年前に、もう一つの人道物語があった。

幼い頃に祖国から遠く離れたロシア極東のシベリアで、親と離ればなれになったポーランド孤児たち。飢えと寒さに苦しむ760人あまりの孤児は、日本に救出され、日本の地で静養し、祖国へと帰っていった。

100年前の事実を解き明かすため、取材を続けること6年。忘れられた歴史を今に伝える貴重な資料が次々と見つかった。そこからは、親のいない子どもたちを慰めようと各地から寄せられた善意、伝染病に感染した子どもを救うため命を懸けた若き看護婦…といった私たちの知らない100年前の日本人の姿が浮かび上がってきた。

後編では、日本への受け入れが決まったポーランド孤児たちが、日本でどのような生活を送り、祖国へ戻ったあとどんな人生を歩んでいったのか辿っていく。

(全2回、#1はこちら)

3年間で763名の孤児を救出

写真:日本赤十字社提供
写真:日本赤十字社提供
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ロシア極東のウラジオストクを出発した孤児たちは、まだ見ぬ国の新しい生活を想像し、喜び勇んでいたという。

グループごとに分けられた孤児たちは数回にわたり、外務省が依頼した陸軍の輸送船に便乗した。

船が向かったのはウラジオストクとの定期航路が開かれていた福井県の敦賀港。孤児の第一陣が着いた1920(大正9)年7月22日。その翌日の新聞には、この出来事が載っていた。

母親の決死の覚悟で救済組織に預けられたヘンリク・サドフスキさんは、「港は人であふれていました。船から降りると、ある子どもにはポーランドの旗を、次の子には赤十字の旗を、別の子には日本の旗を渡してくれました。『バンザイ ポーランド バンザイ コドモポーランド』と叫んでいました」と振り返る。

ハリーナ・ノビツカさんも「私たちは裸になり消毒液の入ったプールに入りました。そこから出ると服が用意されていました」と感謝する。

敦賀の人たちは孤児たちが到着するたびに、町をあげて歓迎したという。

元孤児のベロニカ・ブコビンスカさんが、当時日本で書いた貴重な日記が残されている。日本でもらった軍人のイラストが描かれたノートには、敦賀で見た日本の様子がロシア語で記されていた。

「玄関で日本人が出迎えて到着を祝ってくれて靴を脱ぐように言いました。靴がない人は足を洗うように言いました。昼食は床にある草のマットに置かれ、私たちは日本人のように足をたたんで座りました。昼食はとてもおいしかったです。昼食の後、お菓子を頂きました。これはツルガの人たちからのプレゼントだと言われました」

松原小学校には1920(大正9)年7月に、ポーランド孤児57名が日本赤十字の人と小学校で休憩して昼食をとったという記録が残されている。

ポーランド孤児の救済は1920年から3年間にわたって行われ、1歳から16歳までの763名がシベリアから助けられた。

その後、孤児たちは敦賀を出発し、東京や大阪の収容施設へと向かった。ベロニカさんの日記には、「ぎゅうぎゅう詰めの列車に押し込められると思っていましたが、やわらかいソファがある一等席に乗せてくれました」と記されている。

伝染病「腸チフス」との闘い

東京と大阪に到着後、まず行われたのは病気やケガをしている子どもの治療だった。

アントニーナ・リロさんは「私は病気でした。シーツにくるまれ鼻先にキスをされました。看護婦さんは優しくて世話をしてくれた日本人は笑顔でいい人たちで、私たちをとても気遣ってくれました」と明かす。

孤児たちの宿舎として東京は「福田(ふくでん)会」という福祉施設が、大阪では市立公民病院の看護婦寮が使われた。

写真:日本赤十字社提供
写真:日本赤十字社提供

はじめは青白い顔だった孤児たちも、1日3度の温かい食事をとることで次第に元気になり、毎日外で遊び回り、年の大きい子どもには読書や算数が教えられた。

元孤児のバツワフ・ダニレビッチさんは、初めて触れる日本文化に喜んだと話す。インタビューで歌い出したのは日本の童謡「うさぎとかめ」だった。

こうした孤児の受け入れについて、100年前の日本人はどう思っていたのか。

日本赤十字社の大阪府支部を訪ねると、ポーランド孤児を救いたいという分厚い寄付の一覧が残されていた。その内容は、洋服の寄付からお金、さらには75人分の散髪までも寄付としてあり、当時の日本人が関心を寄せていたことが分かる。

一方、東京で宿舎を提供していた福田会は、今も当時と同じ場所で児童養護施設などを運営している。しかし福田会では、孤児を受け入れたことは、戦時中の混乱などで忘れられていたという。

福田会・太田孝昭理事長は「今から10年ほど前に当時の駐日ポーランド大使が散歩の途中にこの福田会を通ったときに、『この福田会はあの福田会ですか?』と訪ねてきました。『実は100年前に養生したのが福田会』だと大使の方に教えてもらった。私たちは、ポーランド孤児救済ということを世間に伝える義務を負っている」と話す。

福田会は日本赤十字社に保存されていた当時の日誌を入手し、読み解く作業を始めた。

東京の孤児たちの記録の詳細は明らかになっていなかったが、福田会育児院史研究会、専修大学・宇都榮子名誉教授に依頼し、孤児たちの様子を調べてもらうと、腸チフスが次々と広がっていく様子が明らかになった。

宇都教授は日誌から「体調不調の子どもが次第に増えてきて、14名の子どもたちが隔離。5月2日に至ると、12歳の女児が高度の熱で腸チフスの疑いがあり、翌日はその女の子がチフスと決定した」と読み明かす。

腸チフスはチフス菌による感染症で、患者の便から菌が排出され、ヒトからヒトへ経口感染していく。当時は効果的な治療薬がなく、多くの人が亡くなった。

腸チフスと診断された12歳の女児は、当時チフスが流行していたシベリアで感染し、来日したとみられる。

献身的な看護の末に…看護師も

感染症と闘ったのは孤児だけではなかった。

5月5日には福田会で消毒が行われ、日本赤十字の病院に21人の児童が入院。感染はさらに広がり、5月7日、腸チフス及び疑いあり22人、8日は26人、11日は32人と患者が増えていった。

そして、腸チフスの孤児を看病していた看護婦も感染してしまう。

感染したのは松澤フミという看護婦。

日赤看護大学には当時の学籍名簿が残されており、そこで当時20歳のフミは、新潟から看護学校に入り、卒業後すぐに孤児の看護をしていたことが明らかになった。

「性格は温和にして親切なり」という記録が残っていたが、これ以上の資料を見つけることはできなかった。しかし、フミの写真は日本ではなく、ポーランド国立図書館にある冊子に掲載されていた。

彼女の出身地である新潟で、フミについての論文を書いたさいがた医療センター医学博士・野村憲一さんは「本人は東京でしっかりした授業を受けていますし、感染を防ぐ知識は十分にあっただろうと思います。しかし、使い捨ての手袋やマスク、防護服もなかったので、感染の危険性はゼロにはならなかった。そんな中で看護師としての職業意識から病気を恐れずに孤児たちに接したため感染したのではないか」と語る。

腸チフスに感染した子どもたちは日赤の医師や看護師の懸命な治療の末、全員が回復し、7月8日までに横浜から祖国へと旅立っていった。

しかし、フミはまるで孤児たちの出発を見届けたかのように7月11日、20歳の若さでひっそりとこの世を去った。白衣に身を包んで3ヵ月後のことだった。

ヘンリクさんは「日本の看護婦さんは実の母親のように世話をしてくれました。言葉にできないほど。素晴らしいことです」と感謝を示した。

救済組織のユゼフ・ヤクブケビッチ副会長は、のちにポーランド政府の機関紙にこう手記を寄せていた。

「彼女は献身的行為の犠牲となって亡くなりました。松澤看護婦、あなたの名前はポーランド人の心の中にずっととどまるでしょう」

日本では歴史の中に埋もれた「松澤フミ」という女性の名前。しかし、ポーランドの人たちの心にはしっかりと刻まれていた。

「私は孤児だが日本にいた」

極寒のシベリアから日本に助けられ、無事に祖国・ポーランドへ帰った孤児たち。

ポーランドで孤児たちが収容された施設へ行くと、当時の建物の一部が残っていた。古いレンガ造りの建物で帰国した孤児たちが暮らした。集まっては日本の話をして、日本の歌を歌っていたという。悲惨な経験をした彼らにとって、日本での経験は特別な意味を持っていたそうだ。

生前の孤児から聞き取り調査を行ったポーランド国立特殊教育大学のビエスワフ・タイス教授は、「日本での記憶が孤児たちを癒やす心理療法の役割を果たしていた。“私は孤児だが日本にいた”という誇りの象徴だった」と明かした。

孤児たちはその後、どんな人生を歩んだのか。

ハリーナさんは、祖国へ帰り、結婚して一人娘のカタジーナさんを出産。ところが第2次世界大戦中、ポーランドは再び戦火に包まれ、夫を亡くした。苦労の多い人生の中で日本の楽しかった思い出は、いつも心のよりどころだったという。

カタジーナさんは「母は日本人との触れ合いに心から感動していました。看護婦や世話人が遊んでくれて笑って歌って別世界だと言っていました」と明かす。

ハリーナさんのひ孫となるヤクブくんは、ハリーナさんは遙か遠いウラジオストクから日本に救出され、ポーランドへ帰ることが出来たという話をカタジーナさんから聞き、「うまくいったから僕たちは生きているんだね」と祖母の肩を叩く。

ポーランド孤児の救済から100年。日本は街も人も大きく変わった。

長い時を経て、再び解き明かされた歴史。孤児たちは100年前の日本人の姿をこう伝える。

「日本人は私たちにとても親切で本当によく面倒を見てくれました」
「日本人はお花と子どもをとても大切にします」
「日本人は子どもに優しい人々でした。日本人は子どもが大好きなのです」

今は亡き彼らの言葉は、令和を生きる私たちに何を問いかけているのだろうか。

【#1】手を差し伸べたのは日本のみ…歴史に埋もれた知られざる“ポーランド孤児”救出の軌跡

(第29回ドキュメンタリー大賞『未来に伝えたい 100年前のニッポン人 ~ポーランド孤児救出の軌跡~』後編)

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