三木城に続き鳥取城を追い詰めた陣城
しかし、秀吉の戦いはまだまだ続きます。次の標的となったのは、鳥取城でした。二度目の鳥取城攻撃の際、秀吉は約2万の大群で鳥取城を包囲します。そして、鳥取城の東に「太閤ヶ平(たいこうがなる)」と後世で呼ばれる陣城を築き、そこに本陣を構えます。
方形の曲輪を土塁で囲み、西側には櫓台があります。当時としてもかなり大規模な陣城で、鳥取城にとってもかなり威圧的な存在だったのではないでしょうか。
更に70カ所ともいわれる陣城を築き、構えは万全。三木城と同じく、兵糧攻めによって持久戦に持ち込みます。秀吉の弟、秀長の陣を始めとした陣城が鳥取城を睨む中、ついに食糧不足に耐えきれず、鳥取城は陥落します。こちらも、「鳥取の渇え殺し」と呼ばれ、悲惨な戦いであったことは後世にも語り継がれています。
両軍の陣城群が睨み合った賤ヶ岳の戦い
少しずつ陣城という名のジャブを打って、物理的にも精神的にもじわじわと追い詰める秀吉。その真価は、賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いでも発揮されることになります。今度は攻城戦ではなく野戦です。
本能寺の変で主君の信長が没した後、織田政権の後継争いが起き、柴田勝家と対立しました。柴田軍と睨み合いながら、両軍は戦に備えて約20カ所もの陣城を築きました。
その中のひとつが、「田上山砦」です。田上山の上に築かれ、実質上の秀吉軍の本陣とされています。秀吉が美濃に移動中、秀長が陣城を任されました。
美濃から戻ってきた秀吉が味方を鼓舞したとも伝わるこの城。精神的な意味でも、重要な拠点であったのでしょう。
一方、勝家の本陣となったのが「玄蕃尾城(げんばおじょう)」。もともとあった城を改修し、本陣としたようです。曲輪の周囲は高い土塁と深い空堀が囲っており、その高い技術から「土の城の最高傑作」とも呼ばれています。
結局、賤ヶ岳の戦いで勝家は敗北。秀吉は権力抗争に勝利し、織田家における立場を確実なものとします。賤ヶ岳の戦いといえば、秀吉のもとで活躍した七人の武将「賤ヶ岳の七本槍」が有名ですが、これらの陣城もまた、影の功労者といえるのではないでしょうか。

