古城探検家の今泉慎一さんが、「豊臣兄弟ゆかりの“戦う城”」の歩き方と、秘められた歴史ドラマを紹介する本連載。第4回は豊臣兄弟ゆかりの陣城(じんじろ)を訪ねます。彼らが収めた勝利の数々は、陣城の存在なしではなしえないものでした。
文=西畑紗南・今泉慎一 写真=今泉慎一
防御でなく攻撃のための城・陣城
戦わなければ生き残れない。守るだけの城じゃ十分じゃない。攻めるための城、それが陣城(付城とも)です。
陣城とは、戦の際に前線基地として戦場で築いた臨時の城のこと。攻撃の拠点として重要な役割を果たします。戦国時代の武将たちは現地に陣城を築き、しっかりと準備をしてから戦に挑んだのです。
籠城戦の場合、敵味方がそれぞれ城に籠り睨み合いとなります。たとえば小谷城(おだにじょう)の戦いでは、攻め手の織田方は、敵の目と鼻の先に陣城・虎御前山(とらごぜやま)城を築きました。浅井方が籠城する小谷城の城内から見ると、まるで喉元に匕首(あいくち)を突きつけられたかのような緊張感です。
三木合戦の勝利を決定づけた「陣城」
秀吉は生涯において数々の城攻めで、その才覚を発揮しました。たとえば、1578(天正6)年に起こった「三木合戦」。中国地方進出を目指す秀吉率いる織田軍と、それを阻止したい別所長治率いる毛利軍との戦いです。
毛利方の別所長治が三木城に籠城し2年にも及んだ攻防戦を制したのが秀吉でした。鍵を握ったのが、三木城の周辺に築いた様々な陣城です。平井山に本陣を置いた秀吉は、三木城の周囲に陣城や土塁をいくつも築き、兵糧の補給ルートを封鎖。三木城の孤立を狙います。
周辺にも推定約40の陣城が築かれ、じわじわと追い詰められる三木城。数の暴力。「男は黙ってタイマンだろ!」などという仁義は通用しません。

