岩手県遠野市にかつてあった城にまつわる地名の由来を探る。
遠野駅前周辺は、かつて城下町があり、現在も歴史を感じられる町並みが多く残っている。明治時代まで横田村という村だったという。

長年にわたり岩手県の地名を調べている宍戸敦さんは次のように説明する。

宍戸敦さん
「現在の遠野市街がある場所は横田村だった。明治22年に町制施行で、広域名称の遠野という名前を使って『遠野町』という名称になった。横田村という地名は、現在の猿ヶ石川の北側にあった城の周辺の“横にある田んぼ”が由来と考える。それが横田城という城の名前になり、横田城から広域名称として横田村となったと考える」

この横田城は、安土桃山時代に約3km南にある“鍋倉山”に場所を移し、のちに「鍋倉城」として広く知られるようになる。

鍋倉城は、鍋倉山の地形を生かした強固な要塞として知られ、現在も残る「鍋倉城跡」は国の史跡に指定されている。

宍戸さんによると、「鍋倉山は、ご飯を炊く鍋を伏せたような形で、「倉」は斜面や崖地のことなので、鍋をひっくり返したような形で、その脇辺りの急斜面が鍋倉の由来と考える」という。

「横田城」と「鍋倉城」という2つの城は、遠野の歴史を語る上で欠かせない重要な存在だ。
この2つの城について遠野市立博物館の熊谷航さんは次のように説明する。

遠野市文化課学芸員 熊谷航さん
「横田城は、鎌倉時代に阿曽沼氏が居て遠野の領主だった。約400年遠野の地を治めていて、その拠点となった城だった。横田城の南側に流れている猿ヶ石川がよく氾濫し、横田城に家臣団が駆け付ける時などに差し支えがあった。猿ヶ石川の対岸に鍋倉山があり、横田城が鍋倉山の方に移ったということが書物に書かれている」

熊谷さんは「鍋倉山に城を移したから鍋倉城と呼ばれるようになったが、鍋倉山に移った後も“横田城”の名前が使われていて、“鍋倉城”の名が定着したのは明治期以降といわれている。旧“横田城”と区別するために“鍋倉城”と呼ぶようになった」と話す。

横田城が鍋倉山に移った江戸時代、現在の遠野市街地の礎となった城下町が形成された。

遠野市文化課学芸員 熊谷航さん
「江戸時代にそれまで鍋倉城の城主は阿曽沼氏だったが、青森県の八戸市にいた八戸南部氏が盛岡の南部利直公から遠野が盛岡藩と仙台藩の藩境にあり重要な場所であるから、この藩境を守るようにお達しがあって移ってきた。遠野南部氏として鍋倉城に入り、城下町が築かれ1万2000石の石高がある城下町になった」

熊谷さんは「鍋倉城があって城下町の繁栄があったからこそ、今の遠野があると思う」と話す。

江戸時代に発展した鍋倉城の城下町は、明治時代初期まで続いた。

遠野市街地には、歴史を感じさせる建物が多く残っている。
中でも、明治時代初期に建てられたと伝わる「旧高善旅館」は、国の登録有形文化財にもなっている貴重な町家だ。

遠野市文化課学芸員 熊谷航さん
「旧高善旅館は明治から昭和ごろの旅館。遠野物語の著者・柳田國男や内閣総理大臣だった原敬も宿泊した」

現在は柳田國男の功績を紹介する展示コーナーがあり、建物そのものを見せる施設として公開している。

城の移り変わりと城下町の発展、その歴史は今も遠野の町並みに息づいている。

岩手めんこいテレビ
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