500人以上の報道陣が静まり返った時

 
 
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1998年10月4日早朝、ついに「Xデー」がやってきた。
今から20年前、同年7月25日に発生した和歌山カレー事件。
死者4人、急性ヒ素中毒63人を出した事件の疑惑の人物、林真須美(当時容疑者)宅に強制捜査が入るとの情報を得て、その日、私は夜も明けぬうちから和歌山市園部、林邸の前にいた。

 
 

私は朝のワイドショー「ナイスデイ」のメインキャスターだったが、この日は運よく日曜日。取材に出ることができた。
あの小さな園部地区の住宅地に取材陣が500人はいただろうと当時の記録に残っている。
その500人は皆、息を殺してその時を待っていた。

 
 

音を立ててはいけない。
周辺の住宅に騒音で迷惑をかけてはいけない。
まず気にしていたのはそのことだった。

それは、嵐の前の静けさだった。

 
 

そして、ついにこの言葉を口にする時がやってきた。
「さきほど林マスミ容疑者が逮捕されました!!」
放送で、打ち合わせで、何度も口にしてきたこの名前。
しかし、私は違和感がぬぐえなかった。

「林真須美」…。

彼女には当時から因縁めいたものを感じていた。なぜなら、私の父の名前が「マスミ」。そして、私の妻も「マスミ」。「マスミ」とは私にとってかけがえのない家族の名前なのだ。

また、彼女はインタビュー受けるときに、いつも当時大人気だったこども服メーカーのロゴが大きく入ったトレーナーを着ていたのだが、当時、彼女の顔にはモザイクをかけていたので、そのロゴマークばかりが目に付く形で放送され大変話題となり、メーカーから「頼むからロゴにもモザイクを」と、お願いが入るくらいの事態となっていた。
 

 
 

実は、私の妻と息子もそのメーカーの服を何枚も持ち、私と一緒によく着ていた。
「うちと同じだよ」
妻とそんな会話も交わしていたので、この疑惑の女に何か他人のような気がしない思いを抱いていたのだった。
 

「こんな普通のおばちゃんに、あんなひどいことが出来るのか?」

 
 

「夏祭りのカレーに毒物を入れたのは、地元でも有名な豪邸に住む主婦ではないか?」
ニュース以上にワイドショーが飛びつくような噂話に、各マスコミ100人前後が園部地区に出動。連日、林邸の周囲を取り囲み、その姿や話を撮ろうとした。

もちろん、私も週末ごとに園部を訪ね、顔見知りとなる住民もできて、様々な情報を得た。
しかし、週末だけの取材だったので各局、各番組が彼女のインタビューを撮るなか、私はなかなか当人に会うことができず。番組のメインMCとして焦りは隠せなかった。

何回目の取材だったか、彼女と玄関で立ち話をすることができたときは、正直、疑惑の追及よりも「安堵」だった。
今なら、きちんと疑惑に切り込む所だが、20年前である。私は未熟だった。
私が立ち、彼女が玄関の板の間に座りながらの会話だった。
「こんな普通のおばちゃんに、あんなひどいことができるのか?」というのが一番の印象だった。

様々な取材攻勢の中で水をかけられそうにもなったが、むしろ、「当人なら、かえって怪しまれるようなこんなコトしないだろう」と現場では感じていた。

今でいうメディアスクラム(集団的過熱取材)状態が激しく発生していて、4人亡くなった事件の重みよりも、なにか、「疑惑の女」を巡るお祭り騒ぎのようなムードが当時の現場の“熱”であり、のちの重大現場取材における反省材料となるのであった。

「ヒ素」発見で事件は重大化

 
 

私は、林真須美死刑囚が関与した事件がカレー事件のみ、単体の事件であったら、重大事件ではあるが、ここまで大きなニュースにはならかったと感じている。
当初、毒物は「青酸」とされ「青酸カレー事件」とも呼ばれていたが、化学分析の結果「ヒ素」が検出されたことで、事件の流れが変わってきた。

1:真須美死刑囚が保険の外交員であったこと
2:林邸に通っていた知人男性らがカレー事件の前に、林邸で食事をしたあとに、「ヒ素中毒」のような症状で入院していた事実
3: 二人には億単位の保険金がかけられ、支払いは真須美死刑囚自身
4:保険金は林夫婦に入る仕組みになっていたなどという疑惑
5:夫はかつてシロアリ駆除業者をしていて「ヒ素」所持していたこともわかってきた

次々と出てくる疑惑や事実に、カレー事件はさらなる広がりを見せ、我々マスコミの、国民の興味は、この夫婦はいつ逮捕されるのか?という一点に絞られていったのだった。

カレー事件の裏で

 
 

「私の夫も真須美に殺された。笠井さんになら話したい」富山の主婦からそんな告発もフジテレビに入ってきた。

同じ保険金詐欺で、他にも命を狙われた人物がいたのか、と取材を敢行。我々は富山に急行した。
インタビューで聞いた話は驚くべき手口で、迫真性もあった。ところが、裏取り取材をはじめると、話の確認がなかなか取れない。さらには、その主婦とも連絡がとれなくなり、彼女は姿を消してしまった。

新たな被害者の詳細な話はなんだったのか?
結局、その取材はボツ。事件の裏では、そんな事も起きていたのだ。
 

死刑囚の自宅

 
 

一方、園部では「カメラなしで」という条件で私も自宅に上がり、林夫婦に話を聞くことができた。
特に怒ることもなく、時折笑顔を交えながら「自分たちがやるはずがない」ということを、二人は淡々と、かつ、饒舌に話していたことを覚えている。
家の中は汚くはないが、雑然としていて雑誌などが数冊散らばっていた。

「本当に、この人がやったんだろうか?」

何らかの罪には問われるだろうとは感じていたが、このときは、この妻が死刑判決を受けるなどとは思ってもいなかった。

まるで『地獄の黙示録』

 
 

話を再び1998年10月4日早朝に戻そう。

午前6時。
林邸への強制捜査が始まった。
しかし、「静かだな…」。
まず感じたことは、それだった。

その3年前、先日死刑が執行されたオウム事件の麻原彰晃こと松本智津夫“逮捕”の日、私はヘリコプターから7時間にわたり実況中継を行った。第6サティアン上空には警察、マスコミのヘリが何機も旋回し、身の危険を感じるほどだった。
大きな事件にはヘリ・リポートがつきものなのだ。
しかし、林邸への強制捜査が始まっても、園部地区上空はとても静か。
ヘリは1機も飛んでいなかった。

当時、園部地区の住民からのマスコミに対する苦情が多く、「Xデー」に関しては、早朝のヘリ取材をマスコミ側が自主規制し、ヘリ取材は午前7時からとするという取り決めをかわしていたと記憶している。だから、午前6時はヘリを飛ばすことができなかった。

事態が変化したのが午前7時直前だった。
「バラバラバラバラ」
現場がなにやら騒々しくなってきた。
それは驚きの光景だった。
大阪方面の上空から、各マスコミのヘリコプター10機ほどが、横一列になって一斉に林邸めざして、我先にと接近して来たのだ。

まるで映画『地獄の黙示録』のようだった。その光景はいまでも忘れられない。
米軍ヘリ部隊が、『ワルキューレの騎行』の曲にのせて編隊飛行をしながらベトナムを総攻撃する。その光景と重なって見えたのだった。
その直後、園部の町はヘリ10機の凄まじい爆音につつまれた。

静けさと爆音。
20年が経過し、林真須美死刑囚逮捕当日の記憶は「音」として蘇ってくる。

あの事件以降、園部地区では、祭りのような行事は行われていないという。

(執筆:フジテレビ アナウンサー 笠井信輔)

笠井信輔
笠井信輔

現場百回…。「太陽にほえろ!」だったか「夜明けの刑事」だったか?それとも「踊る大走査線」だったか?刑事ドラマで教えられた教訓。ワイドショーリポーターを出発点に情報報道畑一筋で歩んできた身としては、やはりこの言葉に勝るものはない。現場に足を運んだものが最も語る資格を持っている。今は「現場」より「会議室」が多いのが残念。
東日本大震災。阪神淡路大震災。三宅島噴火。有珠山噴火。奥尻島大津波。地下鉄サリン事件。オウム事件・麻原教祖逮捕中継。和歌山カレー事件逮捕の瞬間。全日空ハイジャック事件。長野五輪・ソルトレーク五輪。米国大統領選挙などを取材。著書「僕はしゃべるためにここ(被災地)へ来た」(新潮文庫)。