「胡散臭い人」

捜査資料には、貸金庫の女性従業員の証言が残されている。

「契約者の中で胡散臭い人や変な人は記憶に残っています。浅野さんという方は7~8回は見ています。浅野さんの名前でその人と別の人が貸金庫に来たことはありませんでした。
貸金庫を新規契約した方には会社からご挨拶状が送られるのですが、浅野さんに送られた挨拶状が会社の方に戻ってきたので胡散臭いと感じました。
それで住所の確認をしに登録の住所まで赴いて見に行ったのですが、浅野さんのお宅はありませんでした」

貸金庫の従業員は中村泰元受刑者を記憶していた
貸金庫の従業員は中村泰元受刑者を記憶していた

「浅野さんが貸金庫に来られた時に、そうした書面が戻ってきたことを告げると『近々引っ越すから仮の事務所だ。金さえ払えばいいだろう』と浅野さんは言ってきました。
また別の日に浅野さんが内箱を重たそうに運んでいるので、一度お持ちしますか?とうかがったところ『いい、いい、いじんないでください』と言われたこともあります」

中村は胡散臭い感じの悪い男として、従業員の記憶にとどまっていた。

頻繁に貸金庫を開けた理由

長官事件当日の1995年3月30日は、朝9時26分に開閉したことが記録に残っている。事件が8時半頃に発生し、現場から車や電車を使って9時26分に中村が新宿の貸金庫にたどり着けたのかが後に争点になる。

この開閉記録から、中村は大量の拳銃や実包が入った貸金庫を頻繁に開け閉めしていることがよくわかる。自分のコレクションを度々眺めたかったのではないかという見立てもあるが、実際は拳銃の手入れが必要だったとする見立てが有力だ。

大量の銃器が発見されたその日のうちに、警視庁刑事部長を長とし、愛知県警、大阪府警との合同捜査本部を設置される。

長官事件への関与が強く疑われる中村の存在が浮上したことから捜査一課は南千住署特別捜査本部に中村について通報し、特捜本部の捜査員を実際に三重県の居宅に呼んでいる。

現地を訪れた南千住署特捜本部の公安部捜査員は、はなから中村が真犯人のはずはないという反応だったという。

中村の取り調べ

2004年2月12日、警視庁は中村の身柄を収容中の名古屋拘置所から警視庁に移し、新宿の貸金庫から見つかった銃器・弾薬について銃刀法違反などの疑いで通常逮捕した。

警視庁に入る中村泰元受刑者を乗せた車 2004年2月
警視庁に入る中村泰元受刑者を乗せた車 2004年2月

警視庁捜査一課の原雄一係長が取調官として中村を調べることになったのはこの時からである。原は中央大学法学部を卒業後、民間企業勤務を経て警視庁の捜査一課に入った異色の経歴を持つ。それ故か、押しの強い昭和の刑事とは真逆のおとなしい沈思黙考型の刑事だ。捜査計画は緻密であり、調べも理詰めでやるタイプである。

初対面の人間には記者であろうが必ず丁寧語で話す。自分よりも年配の中村に対しては連続拳銃強盗犯といえども敬意を払って臨んだ。そのため中村への調べはグイグイ質問を重ねていく尋問方法とは全く逆で、静粛な雰囲気となった。初めは腹の探り合いをしているかのようで、時折沈黙が流れる、たどたどしいやり取りが続いたという。

原は中村の生い立ちから聴き始め、見つかった多くの銃や実弾を所持していたことの理由を尋ねた。

中村泰元受刑者
中村泰元受刑者

すると中村は隠すことなく堂々と自分の半生とこれらの銃器・弾薬について語り始めた。中村が明かした内容から、原は中村を当初は思想犯として扱わざるを得なかったと思われる。

中村の以下のような当初の供述から左翼思想にかなり感化されていたことが伺える。

満州で生活し旧制水戸中学に

「父親が南満州鉄道の技術者で幼少期は満州で過ごしました。満州では拳銃が自宅にもあるありふれた物でした。東京に戻って間もなく太平洋戦争が勃発し、東京が空襲されるようになると、母の実家があった水戸に疎開しました。私は旧制水戸中学に進学しましたが、水戸も空襲されるようになり、中学も休学することになりました。
そして父の勧めで水戸郊外にあった橘孝三郎という人がやっていた右翼団体「愛郷塾」の塾生として住み込みました。この人は五・一五事件で農民義勇隊を指揮して変電所に手榴弾で攻撃をした人で農本主義を基本理念としていました。
私はこれからの日本は工業が中心となると思っていたので半年ほどで塾を離れました。しかしこの「愛郷塾」にいた時に、犬養毅首相を撃った政党は右翼の元海軍将校、三上卓を知ることとなりました」