北海道北部、苫前町。この町で猟に出るとき、猟友会会長の林豊行さんが”お守り”として必ず携えるものがある。長年使い込まれ、研ぐたびに細くなった一本の猟刀だ。
「だいぶ前にもらった時から使っている。切れなくなるから研ぐ。研いだ分だけ細くなっている」
その刀には、110年前にこの地で起きた、日本史上最悪とされるヒグマ被害――三毛別ヒグマ事件の記憶と、先人たちの覚悟が刻み込まれている。
■110年前に起きた日本最悪の獣害事件
事件が起きたのは1915年12月9日。
苫前町三渓地区、旧三毛別六線沢。住宅にいた女性と、預けられていた男の子が突然現れたクマに襲われ、命を落とした。
翌日、クマは通夜の場にも姿を現す。
別の住宅を襲い、臨月の母親に襲いかかった。
「臨月のお母さんが、『腹を破らないでくれ。喉を食って殺してくれ』と叫んだ。俵の影に隠れていた人がいて、その人の証言からこの言葉が残っている」
苫前町郷土史研究会の関係者は、凄惨な当時の様子を語る。
2日間で、母親と身ごもっていた子どもを含む7人が犠牲となった。
住民を襲ったのは、体長約2.7メートル、体重340キロとされる巨大なヒグマだった。
このクマは、冬眠に入れず「穴持たず」となり、極度の空腹状態に陥っていたとされる。
人里に現れ、最終的に人間を襲った。
事件から1週間足らずでクマは駆除されたが、その際、周囲の木々をなぎ倒すような激しい吹雪が約7時間にわたって続いたという。
この吹雪は、今も「羆風(くまかぜ)」として語り継がれている。
悲劇は町に深い爪痕を残した。
■町を守る者としての誓い
林さんが携える猟刀は、この事件のクマを仕留めたハンターの弟子であり、その後も長年町を守り続けた猟師・大川春義さんとその息子から受け継がれたものだ。
事件当時、三毛別に住み、幼少期に惨劇を目の当たりにした大川さんは父親に、こう言われたという。
「敵討ちしろ」
その言葉を胸に、大川さんは猟師の道を選んだ。
生涯で仕留めたクマは100頭を超える。
町内の神社には、大川さんが自ら建てた慰霊碑がある。
そこに刻まれているのは、町を守る者としての誓いだ。
「一生を賭してクマ退治に専念し、以て部落の安全を維持するは、己に課せられたる責務なり」
大川さんは、捕ったクマの頭を祀り、ろうそくを立てて手を合わせたという。
命への敬意を忘れない姿勢が、そこにはあった。
幼い頃、大川さんにクマ撃ちに誘われ、その背中を見て育ったのが林さんだった。
猟師になっておよそ50年。今も林さんは、先人から学んだ教えを胸に刻んでいる。
「沢底から上にいるクマを撃つな。そのまま滑り落ちてきて、まだ動けるやつがいる。少しでも高いところに上がって、二の矢を撃てる態勢で撃て」
毎朝、林さんはわなを見回る。
しかし、110年が経った今も、クマとの闘いは終わっていない。
「今年は出方が異常だ」
町内では連日のようにクマの目撃情報が相次ぎ、体重が400キロ近い巨大なクマが現れ、箱わなをなぎ倒す様子も確認された。
「くだらないわなで俺を捕まえる気か、とクマが笑いながら去っていった感じだな」
苦笑する林さん。その後、この巨大グマは箱わなにかかり、ようやく駆除された。
「今までわなで捕獲したクマでは最大」
驚くほどの大きさと、用心深さだった。
一筋縄でいかないクマの出没。林さんの心が休まる日はない。
■後世に伝えるべきこと―
悲劇を風化させてはならない――。
町では、三毛別ヒグマ事件を語り継ぐ取り組みが続けられている。
その一つが、頭が獅子ではなくクマの姿をした「苫前くま獅子舞」だ。
50年以上にわたり受け継がれてきたこの舞は、事件をもとにした物語を描く。
開拓者のもとにクマが現れ、命を奪う。
猟師がクマを討ち、悲しみから立ち上がっていく――。
人とクマの共生を問う物語を、今は町の子どもたちも演じている。
保存に携わるメンバーの中には、幼い頃に聞いた話が忘れられないという人も。
「祖母から、事件当時、クマが骨をかみ砕く音が聞こえたという話を母が聞いていた」
担い手不足で活動が途絶えかけた時期もあったが、子どもたちが加わり復活した。
「楽しい出来事ではない。でも、こういう人たちがいたから今の苫前がある。後世に伝えていかなければならない」
■撃たなければならないから、撃つ
「共生というのは、お互いに認識し合って、認め合うこと。でも現実には、お互いに恐れて近づけないようにする。それしかない」
刀を見つめながら、林さんは静かに語る。
「この刀には、大先輩の気持ちが入っていると思う」
撃ちたくて撃つわけではない。撃たなければならないから、撃つ。
クマが増え、誰かが犠牲になることを防ぐために――
110年前の悲劇の地で、先人から受け継いだ覚悟を胸に、林さんは山へ向かい続ける。