日本が太平洋戦争に敗れて80年の節目の年。
TSKでは、山陰に残る戦争の体験や記憶を掘り起こしお伝えしてきました。
今回スポットを当てるのは「遺されたモノ」。
戦争の爪痕を静かに伝える「物言わぬ語り部」が、山陰にも多数残されています。

島根県邑南町の寺にある釣り鐘。
実は戦時中、戦闘機の燃料の製造道具でした。

『全村を あげて松根 赤だすき』

このポスターが作られたのは、太平洋戦争の末期。
燃料不足に悩む旧日本軍は、マツから採れる油から戦闘機用のガソリンを製造することを計画しました。
マツから採取した油は2種類あります。

一つが松脂。
出雲大社の神門通りの松並木には、いまも、むきだしになった幹に刻まれた何本もの筋が残っています。
松脂を採取した傷あとです。

もう一つが「松根油」。
枯れたマツの切り株を蒸し焼きにすることで得ることができます。
この「松根油」を精力的に製造していたのが、現在の邑南町です。

邑南郷土史研究会・中山光夫さん:
現物がこちら、お寺の鐘楼代わりにしている。

町の歴史を研究する中山光夫さんです。
戦時中は、松根油を抽出するために使われた鉄釜だったといいます。

邑南郷土史研究会・中山光夫さん:
戦前には鐘楼があったと思うが、鉄の供出があったのでなくなったと思うが、河原に捨てられ使われなくなっていたのを戦後に持ち帰って吊るした。

終戦で役目を終えた鉄釜は、戦時中の金属供出で失われた寺の釣り鐘の代わりとして、戦後すぐに住職らによって吊るされたと伝わっています。

資料によると、邑南町をはじめ全国から集められた松根油は20万リットル。
しかし、航空燃料としては質が悪く、実用化されたという記録はありません。

戦時下の異常性を図らずも体現した鉄釜、今は、その姿を釣り鐘に変えて安寧の響きを山里に伝えています。

戦禍を免れ、そのままの姿で遺されたモノもあります。
「青い目の人形」は1920年代、日米の友好を図ろうとアメリカが日本に約1万2000体を贈りました。
「親善大使」として全国の小学校でかわいがられたといいますが…。

日米開戦で環境は一変。
当時の新聞には恐ろしい見出しが…。

『青い眼をした人形 憎い敵だ 許さんぞ』
【毎日新聞昭和18年2月19日より】

「日米友好の親善大使」は「敵国のスパイ」に変貌し、小学校に対して国は壊すよう通達したといいます。
倉吉市在住の中井孝子さん(91)。
全校児童が集まり、1人ずつ順番に人形を叩いたといい、その手の感触をはっきりと覚えています。

中井孝子さん:
叩き方が悪いと言われて「やり直ししろ」と先生に言われてやり直しさせられた。それが嫌だったから、その記憶だけが残っている。

約1万2000体もあった人形は竹やりで体を突かれたり、燃やされたりしてほとんどが処分され、今残っているのは全国でわずか300体ほど、山陰では島根と鳥取に2体ずつ、合わせて4体が命をつないでいます。
そのうちの1体が、浜田市金城町の今福小学校にいます。

今福小学校校長:
ずーっと大事にしている青い目の人形です。

人形には一体一体に名前がつけられています。
最初に贈られてきたときの人形には、パスポートが付けられていました。
このパスポートとともに誰かの手によって屋根裏に隠された「キャサリン」。
終戦の約25年後に校舎建て替えの際、偶然発見されました。

長い眠りから覚めた「キャサリン」は、新たな役割を担っています。
教室で児童を見守る「キャサリン」…新たな役割とは、平和学習の教材です。
今福小学校では、青い目の人形と戦争の関わりについて学ぶ平和学習を長年行っています。

子どもたちは、「人形を壊せ」と命じられた当時の同年代に思いを巡らせ、「キャサリン」を通じて戦争がもたらす異常な生活や平和の尊さについて考えます。

「日米友好の親善大使」「敵国のスパイ」そして「平和の象徴」、時の流れとともに変容した青い目の人形。
その瞳に映し出される社会が再び戦禍に見舞われない事を今、静かに訴えているようです。

現代に残され、新たな役割を与えられる遺物の一方で、戦後80年という長い年月によって朽ちゆくものもあります。

島根県奥出雲町仁多地区。
戦没者の名が刻まれた平和の塔には規制線が張られています。

島根県遺族連合会仁多支部・石原道夫会長:
一番危険なのは、この平和の塔が倒れるということ。

倒壊の危険があり、慰霊の祈りを捧げることができなくなっています。
町内には9基の慰霊碑がありますが、少なくとも3基がすでに倒壊、もしくは倒壊の
恐れがあるといいます。

こうした戦没者慰霊碑の老朽化は、全国で問題化しています。
全国にある戦没者慰霊碑は、厚労省の調べでわかっているだけでも1万6000基を超えていて、このうち管理者がいない、または連絡が取れないとされた碑が1500基近く。
さらにすでに倒壊、または倒壊の恐れがある碑が200基余り。
ひび割れなど経年劣化が約550基あります。

こうしたなか、自治体が慰霊碑の存続に関与した例が山陰にあります。
倉吉市は、市内各地区の遺族会が高齢化によって相次いで解散したことを受け、2021年度から4年かけて慰霊碑7基を市の土地に移しました。
移設費用は約2000万円で、このうち350万円は国の補助金を活用しました。

倉吉市役所福祉課・藤井裕子さん:
実際に倒壊したらどうなるか、危険もあるし、継続して忠魂碑を管理していくことで今後に伝えていく、引き継いでいくことも市としてできる役割かなと思います。

こうした動きを知った奥出雲町の遺族会も、町に慰霊碑9基の統合を働きかけています。

島根県遺族連合会仁多支部・石原道夫会長:
これがなくなってしまうと、即戦争は忘れられてしまうということになりますね。戦争が忘れられるとどういうことが起こってくるかというと、また戦争するということになる。そういうことがないために、この戦死者は頑張ったわけですよね。俺たちが平和の礎だということで、日本を守るために頑張って死んでいったわけです。その思いを消したくない。そのためにはこういうものが必要。

戦争の記憶をつなぐのは、人だけでなく残された“モノ”も語り部として重要な役割を担っています。
しかし、その“モノ”も時とともに失われていくため、私たちは何を残し、どう語り継ぐのか…80年の節目に問われています。

TSKさんいん中央テレビ
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