テレビ新広島、放送50年の歴史の中から、あの日のニュースを振り返ります。
今から31年前の1994年12月9日、被爆者が長年、訴え続けてきた「被爆者援護法」が成立しました。しかし、「国家補償」という言葉は盛り込まれず、被爆者からは落胆の声が聞かれました。
政府が提出した援護法案は、この日の参議院本会議で賛成多数で可決され、被爆50年である翌年の1995年7月に施行される運びとなりました。
長年の被爆者の訴えが一つの決着をみましたが、被爆者が強く求めていた「国家補償」という言葉は明記されず、広島の被爆者団体からは強い反発の声が上がりました。
【県被団協・伊藤サカエ理事長(当時)】
「呆れ返ってものが言えないです。これは、これはね、おそらくね、誰も許さない。どんなに現実的に間違ったきょうの可決であるかということを思いますとね、私たちは許せない」
成立した援護法の対象は、放射線の被害を受けた被爆者健康手帳を持つ生存する被爆者に限定され、原爆で親を失ったが自らは被爆しなかった原爆孤児たちは、含まれませんでした。
被爆者団体は、現在も、政府に対して戦争被害者を広く救済する「国家補償」に基づく援護法に改正するよう繰り返し要望しています。
■「被爆者援護法」解説
被爆者援護法は自社さ連立の村山内閣で成立しました。
援護法には、被爆者団体が強くこだわった「国家補償」という言葉はなく「国の責任で援護対策を講じる」という表現が盛り込まれました。
これについて当時の井出正一厚生大臣は「『国家補償』という用語についてはどのような概念を指すものか確立した定義がないことから、被爆者に対する給付を内容とするこの新法においてこの表現を用いますと、国の戦争責任に基づく補償を意味するものと受け取られる可能性が強いこと、また、その場合には、被爆者に対して国の戦争責任を認めるのであれば、一般戦災者の皆さんとの均衡上の問題が生じること等の理由を考慮した結果、今回の新法には『国家補償」の話を盛り込むことは適当でないと連立与党のプロジェクトチームも合意されまして、私どもも、従来からの経緯に基づきまして同様、適当でないと考えている次第であります」と答弁しています。
一方、こうした日本政府の姿勢に対して、被爆者団体は、国家補償に基づく被爆者援護法の実現に向けて国に働きかけてきました。
日本被団協の田中熙巳代表委員は、2024年のノーベル平和賞授賞式のスピーチで「日本被団協は日本政府の「戦争の被害は国民が受忍しなければならない」との主張に抗い、原爆被害は戦争を開始し遂行した国によって償われなければならないという運動を展開してきた」と述べました。
そのうえで「1994年12月、2法を合体した「原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律(被爆者援護法)」が制定されましたが、何十万人という死者に対する補償は一切なく、日本政府は一貫して国家補償を拒み、放射線被害に限定した対策のみを今日まで続けています。もう一度繰り返します。原爆で亡くなった死者に対する償いは日本政府は全くしていないという事実をお知りいただきたい」と述べています。