80歳で亡くなった鎮西高校男子バレーボール部の畑野 久雄監督。日本代表選手を数多く育てるなど日本のバレー界の発展に大きく貢献してきました。鎮西高校を率いて51年。畑野監督の功績を振り返ります。
【畑野 久雄 監督】
(バレーを見ている時は楽しい?)「そうね、やっぱり〈夢を描く〉というか、〈こうしたらいいんじゃないかな〉とかね。いつもそういう気持ちで見ている。やっぱり〈選手をどう育てるか〉と、やっぱりそれが一番大事。〈育てられる間は育てよう〉と。口は悪いけど」
あまり多くを語らず、的確な一言を短く選手に伝える。
半世紀以上を鎮西バレー部の指導に費やした名将・畑野久雄監督が24日、心臓の疾患のためこの世を去りました。
80歳でした。
元々エースアタッカーとして実業団でも活躍してきた畑野監督。
結婚を機に28歳で現役を引退し、1974年に鎮西高校で指導者の道を歩み始めました。
【畑野 久雄 監督】
「一番最初は1回戦で負けたんですよ。ここの指導者になって。1回戦で負けて、その翌日に全員集めて『全国で勝つチームをつくる』と言ったら〈このおっさん、何言ってるんだろうか〉ってそんな感じでポカンとして見ていた」
しかし、わずか5年後には九州チャンピオンに導き、春高全国大会に出場するまでのチームにつくり上げました。
(82年中九州大会優勝)そして1993年、のちの日本代表、朝日健太郎を擁し春高全国大会で準優勝に輝くと、その2年後。
双子の諸隈兄弟を擁し、インターハイで優勝。監督に就任して21年目で、ついに悲願の日本一にたどり着きました。
指導のモットーは「当たり前のことを当たり前に」。エースで打ち勝つバレーにこだわり、毎年、その世代を代表するエースアタッカーを育ててきました。
2016年の熊本地震では益城町の自宅が被災。長期間にわたって車中泊を続けるなど厳しい生活を余儀なくされる中で、練習場所をなくした選手たちを励まし続けました。
【畑野 久雄 監督】
「大変だろうけど、こういう時に頑張らなん。一人一人が自立して」
2006年には心筋梗塞、2017年には肺がんも患うなど度重なる大病をも乗り越え、2018年、鍬田、水町のダブルエースを擁しインターハイで日本一に輝くと、春高全国大会でも。
「鎮西高校、悲願なる21年ぶりの全国優勝です」
数多くの日本代表選手を育て上げてきた畑野監督。
その突然の知らせに教え子たちは。
【元日本代表・朝日健太郎さん】
「年明けの春の高校バレーに向けたそんな連絡かなと思って〈頑張れよ〉っていう話をするもんだと思って受話器を取って…まさか、まだ信じられない気持ち。『最後はエースが決めるんだろう』と選手に問いかけるわけです。それはやっぱり教え子たちはみんな分かって、自分たちなりにエース像を追い求める。それがまさに鎮西の強さなんじゃないか。バレーボールの指導はもちろん、高校の3年間、あの体育館で畑野久雄先生の元で指導を受けて〈人生の扉を大きく開けてもらった〉と思う卒業生が多いと思う」
【日本代表・宮浦 健人 選手】
「自分は中学3年間、高校3年間、畑野先生に教えていただき、今こういう自分がいるのも畑野先生が教えてくれたものが土台となってここまで来られた。〈天国から見ているんだろうな〉という気持ちを持って、またこれまで教わってきたことを胸に精進していきたい」
複雑なコンビバレーが主流となる中で最後までエースバレーを貫いてきた畑野監督。
今年も岩下、一ノ瀬のダブルエースを中心にインターハイ、国スポを制し、通算10度目の全国制覇を達成。
今月、春高全国大会への切符を獲得したばかりで、畑野監督にとっても初めてとなる高校3冠の偉業に挑む予定でした。
今後はOBでもあり、畑野監督の元で12年間、コーチとして携わった宮迫 竜司コーチが監督のバトンを受け継ぎます。
去年就任50周年を祝うパーティーで今後の夢について語った畑野監督。
【畑野 久雄 監督】
「鎮西を卒業した人が『元気です』と声をかけてくれること、今の選手が成長することが夢です」一人一人の将来を思い、厳しくも優しく見つめ続けてきた51年間。
亡くなる前日まで選手たちの指導に当たりました。
【畑野 久雄 監督】
「『頑張った証し』で『努力した証し』で自分が望むことが可能になるんだよ。頑張らんやつは可能にはならん」
〈畑野イズム〉を受け継ぐ最後の教え子たちは年明け、東京体育館で集大成の舞台に挑みます。