岩手県一戸町の南部に位置する奥中山は、奥中山高原として知られる地域である。この地には戦中・戦後の歴史と人々の営みが刻まれた地名が数多く残されている。地名の由来を手がかりに、奥中山の過去と現在を紐解く。
長年にわたり県内の地名を調査してきた宍戸敦さんによると、「奥中山」という名称は、江戸時代から存在していた「中山村」に由来するという。
明治期以降、軍馬補充部の設置や新たな開拓の人々が入ったことで、「中山村」の西方に広がる地域が「奥中山」と呼ばれるようになったという。
(軍馬補充部…明治から昭和中期まで設置された、軍用馬の確保と育成を目的とした組織)
奥中山には、戦中・戦後に誕生した地名も多く存在する。
宍戸敦さん:
戦中・戦後として残る地名として、『日蓄(にっちく)』『二戸郷(にのへごう)』『豊ケ丘(とよがおか)』がある。
「二戸郷」は二戸出身者が新たに開拓・開墾した地域であり、出身地にちなんで名づけられた地名である。
「豊ケ丘」は、これからの土地が栄えるようにという希望を込めて名づけられた「瑞祥地名」である。(瑞祥地名…縁起の良い意味を込めて名づけられた地名)
「日蓄」は、音楽関連企業「日本蓄音機(現在の日本コロムビア)」が戦時中に疎開してきたことに由来する。音楽関係で有名な企業が岩手に来て、ある一時期、生産活動を行ったことが地名に残っているのは、とても素晴らしいこと。
奥中山の開拓の歴史を知る「カフェ里やま」を営む戸田睦子さんは、奥中山開拓団長の孫にあたり、昭和21年に東京から家族でこの地に移り住んだ。
カフェ里やま 戸田睦子さん:
食物がないということで(奥中山の)広大な土地が解放された。開墾して豊かな土地にしましょうと言われ東京方面からたくさんの人が期待を持って入って来た。当時は雑木林と石ころだらけの荒れ地だった。畑を作る以前に、木を倒し、幹を掘り起こし、石を拾うところから始まった。それだけで何年かかったか。
過酷な土地での開拓の日々が続くなかで、新たな動きが生まれた。
カフェ里やま 戸田睦子さん:
昭和28年・29年頃、寒波が来て作物がダメになった。団長をはじめとする責任者たちが、寒さや天気に左右されない酪農に進むべきだと考え、酪農に力を入れていった。
奥中山に酪農が広まった後、再び作物にも力を入れるようになった。
戸田さんによると、寒冷地に適したキャベツやトウモロコシなどの野菜栽培も盛んになり、現在では産直施設も整備されているという。
「カフェ里やま」では、奥中山産の野菜をふんだんに使った料理が提供されている。季節の野菜カレーには、地元で採れた野菜の旨味がたっぷりと溶け込んでいる。
戸田さんは、今後の店づくりについて「奥中山は『福祉のまち』とも言われている。障がいのある方や高齢者も多くレストランやカフェに入りづらいという方もいる。どんな人でも気軽に集まれて、出会い、友達になれる場所にしていきたい」と話す。
荒野を切り拓いてきた先人たちの歩みは、今も奥中山の暮らしを支えている。
 
       
         
         
        