岩手県北部に位置する一戸町には、「侍村」と「鳥越」という地名が存在する。これらの地名には、戦国時代の激動や人々の暮らし、そして自然との関わりが静かに刻まれている。地域に根差した歴史と地形に由来する地名の背景を探る。
「侍村」という地名の由来について、長年にわたり県内の地名を調査してきた宍戸敦さんは次のように説明する。
宍戸敦さん
「侍村は姉帯地区にある地名。この地域には、江戸時代の前の天正年間(戦国時代末期)まで姉帯城が築かれてた。城主の姉帯氏は九戸政実側(南部氏)の血筋。九戸政実の戦いが二戸であり、その前に姉帯城で豊臣軍を迎え撃つが、残念ながら儚く姉帯城を明け渡すことになった。このような歴史から姉帯氏の侍が住んでいたので『侍村』という地名が生まれた」
姉帯城跡には現在も戦国時代の面影が残っている。一戸町文化財調査専門委員長の高橋正一さんは、現地を案内しながら次のように語る。
一戸町文化財調査専門委員長 高橋正一さん
「ここが姉帯城の跡。馬淵川が流れ、急峻な崖に囲まれた地形を利用して築かれた山城。殿様が住んでいたとされる平らな場所は、どこからも攻めにくい構造になっているが、山側からの侵入を防ぐため、2カ所に空堀を掘り、攻めづらい場所に城を構えた」
現在も空堀の跡が残っており、杉の木に隠れて見えづらいが、高橋さんによると「(現在の深さは)約5m、築城から400年以上が経過しているが、当時はさらに深かったのではないか」と考えられている。
一戸町文化財調査専門委員長 高橋正一さん
「姉帯城には200〜250人の侍がいたが、豊臣軍の先発隊は2000〜3000人。兵力差は10倍。結果として全滅した」
時代を経て、この姉帯城跡を公園として整備するにあたり、供養塔が建てられた。
高橋さんは、「戦いで多くの人が亡くなった。姉帯城の侍だけでなく、豊臣軍の人もたくさん亡くなった。合わせて供養しよう建てた。400年前の出来事だが、色々な言い伝えなどが残されており、私たちの(地域の)歴史であり、 “自慢の場所”。 毎年草刈りも行っており、多くの人に訪れてほしい」と話す。
自然地形を利用した姉帯城は、今も「侍村」という名とともに歴史を語り継いでいる。
一戸町にはもう一つ、印象的な地名「鳥越」がある。この地域は竹細工の里としても知られている。
宍戸さんは、「鳥越」の由来について、2つの説を紹介する。
宍戸敦さん
「一つは、山の尾根の少し低くなった場所を鳥の群れがよく通過することから『鳥越』と名付けられたという説。陸前高田市の小友町にも同じような地名があり、鳥が低い尾根を越えていくという話がある」
もう一つの説は、地形の言葉に由来するものである。
宍戸敦さん
「『たおり(を)超(える)』。撓り(たおり)というのは、山の稜線のくぼんだ所を指す。そこを越える場所という意味で『たおり・ごえ』が『鳥越』になったと考えられる。この2つの説のどちらかが由来ではないか」
鳥越山を仰ぎ見ると、昔の人々が見た風景が重なってくるようである。
「侍村」の姉帯城跡、そして「鳥越」の山並み。いまも変わらぬ風景が、戦国の記憶と自然の営みを静かに物語っている。地名は、土地の記憶を今に伝える“語り部”であり、地域の誇りでもある。