沖縄返還の密使となった越前市出身の国際政治学者・若泉敬について理解を深めてもらおうと、越前市が戦後80年を機に関係者を招いた講演会を開きました。
 
1972年、アメリカの統治下にあった沖縄県が日本に返還される際、アメリカと秘密交渉にあたり、核兵器の持ちこみに関する「密約」の作成に関わったのが、越前市出身で国際政治学者の若泉敬です。

   
戦後80年を機に開かれた講演会で若泉について語ったのは、学生時代に書生として若泉の自宅に居候していた元外務事務次官の谷内正太郎氏です。「驚くべきことは、若泉さんは学生時代から、当時の吉田茂首相に話を聞いたり自分の考えを聞いてほしいと自ら門を叩くような人だった。富や権力を持った人に近付くのはどうかという発想はなく、もっと真剣だった。そんなことは言っていられない、という人だった」
 
谷内氏は若泉敬と過ごした日々を振り返り、極めて真面目で誠実な人物像や、いまの国際情勢などについて話しました。

聴衆の中には、越前市南越中学校3年生の姿がありました。生徒は事前に若泉研究の第一人者、大阪観光大学国際交流学部の森田吉彦教授から若泉の功績を学んでいました。
  
森田教授は、生徒たちに「(若泉は)なぜ日本は戦争に負けたのか。広い世界に出かけ、天下の大勢を見ながら日本の生き方を考えよう、と志を立てた。つまりこの時点で、これからの日本を担うのは自分だという志を立てた」と若泉について話し、有事の際には核兵器を再び持ち込むことを認める若泉の密約がなければ「沖縄返還がいつになったか分からなかった。苦渋の選択だった」とも伝えました。
 
南越中学校の3年生たちは「田舎の学校からも権威のある人が輩出されたことは僕たちの誇りになる」「私と同じ年から将来について考えていたので、私も将来に向けて考えたいと思った」と感銘を受けた様子でした。

18日は、若泉が沖縄県民あてに書いた嘆願状が一日限定で公開されました。嘆願状には、緊急時にはアメリカが日本に核を持ち込むことを容認するという「密約」に関わったことへの自責の念から、自ら命を絶つという思いがしたためられています。
  
嘆願状を見た人は「若泉先生が命をかけて歴史と対峙したということが筆跡から伝わってきて、涙が出る思い」と若泉の苦悩に思いを馳せていました。
   
嘆願状は、沖縄県に寄贈されることが決まっていて、受け入れ先となる沖縄県公文書館からはメッセージが寄せられました。

<沖縄公文書館メッセージ>
国土面積の1%にも満たない土地(沖縄)に、今でも全国の米軍専用施設の約70%が集中しています。これこそが、若泉先生が憂いた日本の状況なのです。
 
後援会を終え、地元の中学3年生は―
「志を立てよう、という言葉がすごく印象に残った。これまでは何か目標を立てて生きようと思ったことはなかったので、これからは目標を立てて自分の人生に意義が持てるようにしたい
「今立にはパッとする魅力が少ないが、こんなに小さな町でも行動力があり人のために動けるすごい人がいる事を自分の下の世代にも伝えて、そこから県外にも広がっていくといいなと思った」

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