宮城県南三陸町で今年から語り部活動を始めた人がいます。現在19歳、震災発生当時は5歳でした。「震災の記憶が残る、最後の世代として」という使命感、そして、伝えたい思いがありました。
南三陸町震災復興祈念公園。
畠山興人さん(19)
「地震の対策などはしていたので、鉄骨自体は残ったのですが、そのほかのものは流されてしまったんですね」
畠山興人さん。南三陸町出身の19歳です。この日は大阪から来たという親子に鉄骨だけが残る防災対策庁舎などを見せながら震災の教訓を伝えていました。
畠山さんは今年5月から南三陸町の「まちあるき語り部」として活動しています。
畠山興人さん(19)
「震災を知らない世代にも、震災の恐ろしさや、自分で命を守ることの大切さを伝えるために、まちあるき語り部を始めた」
震災発生当時、畠山さんは5歳でした。
南三陸町は、15メートルを超える巨大津波に襲われました。町内では市街地の建物のおよそ6割が全半壊し、亡くなったのは災害関連死を含め620人、今も211人が行方不明となっています。
畠山さんは、当時、通っていた町内の保育園から裏山に避難するときに、津波を目撃したそうです。
畠山興人さん(19)
「ここでちょうど坂を振り返って見た時に、黒く濁った水、津波が来ていて、家の2階部分などを巻き込みながら、すごい勢いで流されているのを見てしまった。津波もそうだが、住民の人がこちらに走って登ってきて、避難していたのが一番記憶に残っている」
Q.表情は覚えてる?
「緊迫した表情。恐怖に満ちた表情だった」
他の園児や畠山さんの家族は全員逃げて無事でしたが、その後、自宅のあった地域は災害危険区域に指定され、高台移転を余儀なくされるなど、生活は一変しました。
畠山興人さん(19)
「震災前の町にはたくさんの思い出があったので、最初は悲しいという気持ちがあった」
そんな畠山さんの心を支えたのが200年以上続いてきたという地域の伝統行事だったそうです。
畠山興人さん(19)
「震災直後は公園もなくなって、子供たちが遊ぶところがなかった。その中で“祭り”で同級生が集まって遊ぶことができたので、本当に自分の心の支えになったお祭り」
畠山さんが暮らしていた南三陸町歌津の寄木地区に伝わる「ささよ」。
毎年1月15日、子供たちが歌を歌いながら地区の家を回ってその年の大漁を祈願する小正月の伝統行事です。
これは2013年。小学1年生になり初めて「ささよ」に参加した畠山さんの姿があります。小さな体で一生懸命声を響かせていました。
コロナ禍に直面していた2021年は、中学3年生。参加できる最後の年に大将を務めました。
畠山興人さん(当時15歳)
「9年間やってきて今年で最後。寂しくもあるし達成感もある。今まで『ささよ』をやってこられてよかった」
ささよの歌は地域を勇気づけ、自身も励まされてきたという畠山さん。今度は自分が町を支えたい。いつしか、そんな思いが芽生え始めていたといいます。
畠山興人さん(19)
「お世話になった方々にどうやって恩返しができるのかと考えたときに、“まちづくり”として恩返ししようという思いがあった」
畠山さんは高校を卒業後、町の観光協会に就職し、震災伝承施設「南三陸311メモリアル」に配属されました。
町の復興を支える仕事に取り組みながら1年ほどかけて語り部となるための準備をしたそうです。
畠山さんは県の内外から訪れた人たちに、あの日の出来事を丁寧に話していきます。
畠山興人さん(19)
「こちら12メートルの建物なのですが、実際にこの防災対策庁舎を襲ってきた津波の高さが15.5メートルとなっている。54名中43名が亡くなってしまい、11名は助かった」
そして、あの日見た光景、感じたこと。
畠山興人さん(19)
「当時父親と手をつないで、家まで帰ったが、がれきだらけだったので、少しでも気を抜いたら、橋の下に落ちてしまうような形だった」
最後に、必ず伝えていることがあるといいます。
畠山興人さん(19)
「災害は忘れた頃にやって来る。いつどこで災害が私たちを襲ってくるか誰にも分からない。自分の命を守るのは自分自身なので、これから何かあったときに、皆さんには自分の命を守れるようになってほしい」
大阪から中学2年生(13)
「畠山さんと年代が近いからこそ、より話を身近に感じられた」
大阪から(父親)
「自分が5歳のときの記憶はほとんどないが、畠山さんは鮮明に記憶に残っていて、あれだけクリアにお話いただけたということは、すごく記憶に残る出来事だったんだなと思った」
震災発生から14年。震災を知らない世代が増える中、使命感を胸にこれからも語り続けます。
畠山興人さん(19)
「これから震災を知らない世代も増えてくるので、自分が“震災を経験した最後の世代”と言われているので、自分が経験した話と災害の恐ろしさ、命を守る大切さを伝えるために、これからも語り部を続けていきたい」