8月15日で終戦から節目の80年を迎えます。
TSKでは、山陰に残る戦争の体験や記憶を映像で残す企画を、毎月放送しています。
15日は、境港市出身の漫画家・水木しげるさんにスポットを当てます。
取材した田中祐一朗記者です。
田中祐一郎記者:
「妖怪漫画で知られる水木しげるさんは、自らの出征体験を元に戦記漫画も描いています。戦争で片腕を失いながらも戦場を生き延び、漫画を通じて戦争の悲惨さを訴えた水木さん。作品に込めた思いを改めて探ります」
「ゲゲゲの鬼太郎」や「悪魔くん」などで知られる境港市出身の漫画家水木しげるさん。
1943年(昭和18年)、21歳の時に徴兵され、ニューブリテン島のラバウルに出征しました。
当時、ラバウルは、日本軍にとって南太平洋の最重要拠点。
激戦が繰り返され、敵軍の襲撃を受けた水木さんもここで左腕を失いましたが、命からがら生還しました。
境港市の水木しげる記念館。
苛酷な戦場を体験した水木さんが戦後に描いた戦記漫画の貴重な原画などを展示する企画展が、開かれています。
記念館では、常設展示でも水木さんの出征から帰還までを紹介。
作品や言葉を通じて水木さんの「戦争観」を伝えています。
この中の一つ、水木さんが51歳の時に発表した「総員玉砕せよ!」を元にした展示です。
「では突撃する突撃班突撃ーッ」
「うわーっ」
作品では激戦地・ラバウルでの体験を水木さんならではのタッチで生々しく表現。
敗走が濃厚になり「玉砕命令」が下された兵士たちの顛末が描かれています。
中でも印象的なセリフが。
「ああ…みんな、こんな気持ちで死んでいったんだなあ」
「だれに見られることもなく、だれに語ることもできず、ただわすれ去られるだけ」
水木さんの長女・原口尚子さんは、このセリフは水木さんが読者に最も伝えたかったことではないかと話します。
水木さんの長女・原口尚子さん:
一兵卒で、本当に人に誰にも知られずに亡くなっていった人たちの無念さっていうのを書きたいと思ったのだと思います。
十数人いた部隊は、水木さんを残して全滅。
まさに“玉砕”しました。
水木さんは、この作品を書く前年に現地を訪れ、亡くなった戦友への想いを強くしたといいます。
その上で、戦争の悲惨さや戦友の無念さを作品に落とし込みました。
水木さんの長女・原口尚子さん:
自分たちの最後というか、自分たちの苦しみとか辛さっていうのを、表現者である水木に描いてもらって、それで世の中に知らしめてほしいっていうことを、戦友たちがそう言ったからって言ってました。それは、戦友たちが書かせたと言ってました。
数多くの戦記漫画を世に出した水木さんですが、作中では淡々と戦場を描くにとどまり、直接的な言葉で戦争反対を訴えることはありませんでした。
水木さんの長女・原口尚子さん:
戦争って嫌だなぁっていうのを実感してもらいたい。ただ反対だというステレオタイプな感じじゃなくて、自分事として自分の頭でこう考えてもらいたい。そういうふうに思っていたみたいですね。
水木さんならではの手段で、戦争の実情を伝えようとしました。
水木さんの長女・原口尚子さん:
水木は、一兵卒で太平洋戦争に従軍した。水木のような表現者で絵を描く漫画家っていう形で、一兵卒で戦争に行った人って多分いないんじゃないかと思う。戦地に行った水木だからこそ描けるものっていうのは、きっとあるわけで。本当にありがたいことだし、よかったなと思いますね。
漫画『敗走記』の中に、水木さんの戦争に対する想いがありました。
「ぼくは雨が降るたびに、いまわしいこの南方戦線のことを思い出す『戦争は人間を悪魔にする。戦争をこの地上からなくさない限り地上は天国になり得ない…』と」
戦場のリアルを伝える水木さんの作品は、色あせることなく後世に残り続けます。
田中祐一朗記者:
「水木さんの戦争作品を読むと戦場がどんな場所だったのか、人間関係や当時の生活、軍隊という組織など、水木さんが体験した凄惨な戦争を体験したかのように感じられました。終戦から80年が経ち、当時を知る人も少なくなる中、戦争の悲惨さや理不尽さを淡々と描いた水木さんの作品は、一層、重要度を増していきます」