太平洋戦争末期の激戦地、硫黄島で7月に行われた遺骨収集に岡山市の中学校教諭の男性が初めて参加しました。収集を続けることの重要性と戦争の悲惨さを教え子たちに伝えていく決意を新たにしました。

(硫黄島での戦没者遺骨収集に参加 竹島潤さん)
「頭骨が残っていても上半身の骨が極端に少ない場合自決する時に手りゅう弾をカチッとして、こうして爆発したのではないかと頭にもよぎるし、仲間とそういう話をして涙が流れながらも『すいません、お待ちください』と必死で(遺骨を)集めた。」

岡山市の中学校教諭、竹島潤さん、45歳。竹島さんは7月2日から17日まで国の指定を受けた日本戦没者遺骨収集推進協会が実施した、硫黄島での遺骨収集事業に初めて参加しました。

東京都心から南へ約1200キロ。小笠原諸島の南の端に位置する硫黄島。太平洋戦争末期、1945年2月から3月にかけ日米間で激しい地上戦が繰り広げられ、旧日本軍約2万2000人、アメリカ軍約7000人が犠牲となりました。

今回の遺骨収集作業には遺族会や学生ボランティア団体などから20~80代の男女34人が参加。硫黄島は活火山で地熱が高く暑さとの戦いだったと振り返ります。

(硫黄島での戦没者遺骨収集に参加 竹島潤さん)
「スコップで少し掘っただけでも、50~60℃。天然のサウナ・温泉のような感じ。穴を大きく掘って入って作業をしていたら汗だく。本当に活火山の地なんだと思った。」

竹島さんは、フィリピン・ミンダナオ島で戦死した曽祖父の弟の遺骨がどこにあるか分からないままです。

(硫黄島での戦没者遺骨収集に参加 竹島潤さん)
「自分がそのことを詳しく知ったのは、30代前半の時。私は教師として中学生たちと平和学習に取り組む中で、岡山空襲や広島・長崎の原爆投下や沖縄戦など諸問題を扱ってきたのに自分と身近で血のつながっている身内の戦死者のことを詳しく知らなかったと衝撃を受けた。その後、自主単独で現地に慰霊に赴いたことがあって、その時に、現地で戦没者を慰霊し、遺骨を戻して追悼することは必要なプロセスだと感じた。」

硫黄島には今も約1万1000人の日本兵の遺骨が眠っています。専門業者が掘り起こした区域につるはしやスコップを持って入り、細心の注意を払いながら土の中から取り出していきました。

(硫黄島での戦没者遺骨収集に参加 竹島潤さん)
「地熱が非常に高いのと、なんせ80年以上もたっていることもあり骨がものすごくもろい。大きい骨であってもすぐに取り出せるかというと全然そんなことはない。本当に丁寧に竹串を使って作業をしないと骨が砕けてしまう。」

今回の活動では24柱を収容。参加者は収集現場で拝礼し、遺骨箱は移動のバスでは白い布を敷いた座席に置きました。

(硫黄島での戦没者遺骨収集に参加 竹島潤さん)
「バスで宿舎に戻る時に見えている風景が、こういう戦場で亡くなって80年間見つけられずふるさとにも遺族の元にも帰ることができない、その遺骨がここにあると思うと涙が出た。」

80年たっても多くの遺骨がふるさと、家族の元に戻れない現実。一人でも多く、一日でも早く…竹島さんは今後も遺骨収集に関わり、収集を続ける重要性と戦争の悲惨さを教え子たちに伝えていくことにしています。

(硫黄島での戦没者遺骨収集に参加 竹島潤さん)
「自分と何らかの縁やつながりがある人が戦没者となっていることを知ることは自分事として考える大きなきっかけになると思う。聞き取ったり調べる機会をつくりたい。直接、戦争体験者本人から聞くのは世代的にもかなり厳しいと思うが、例えば自分の両親に聞くと「うちのじいちゃんが言っていた」、「うちの母親から聞いたんだけど」と次の次の代から聞ける可能性がある。何も知らない、つながりのない人のことを本で読むのとは違うものになると思う。」

岡山放送
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