戦後80年、「つなぐ約束」と題してシリーズでお伝えていします。

5回目は戦争で父親を亡くし、母親と命からがら旧満州から引き揚げた美作市の82歳の女性の思いです。

◆生後数ヵ月後に召集された父の戦死を知ったのは「5歳のころ」 写真で父の顔を知る

美作市に住む正子初美さん(82)。1943年5月に旧満州で生まれました。生後数カ月後に父親は召集され、帰らぬ人に。そのため、父親との思い出は何も残っていません。

(正子初美さん)
「たくさん私の小さい時の写真を撮ってくれている。うれしかったのだと思う」

正子さんは5歳のころまで、父が戦死したことを知らず、同居する叔父を父だと思っていました。祖母の言葉で父が戦死したことを知りました。

(正子初美さん)
「母方の祖母が私を奥間に連れて行って写真を持っていて、座って初美のお父さんはこれだよと言って見せて、亡くなったことを初めて知った」

結婚から10年でやっと授かった一人娘を残し、戦死した父。戦時中に、岡山に住む祖父に送られた手紙には父の生きた軌跡がありました。

〇父が祖父に宛てた手紙
「元気に育てば10月には(子供を)お見せできると思います」

◆ソ連兵の侵攻から命がけで日本に引き揚げ 女手一つで育ててくれた母に戦争を尋ねても「あんたに言っても分からない」

残された母と正子さんは、侵攻を始めたソ連兵から必死に逃れたと言います。

(正子初美さん)
「床の下に隠れる所を作っていて、私を抱いて、気付かれないように泣かないようにと祈るように過ごしたそう」

終戦後、2人は命からがら、船で日本へ引き揚げました。帰国後、女手一つで正子さんを育て抜いた母。戦争のことについて、多くは語ろうとしなかったと言います。

(正子初美さん)
「聞いたが一切言わなかった。あんたに言っても分からないし、今の若い人にこの辛い思いを言ったって誰も分からない。そう言った」

そんな母について正子さんはこう話します。

(正子初美さん)
「自分の大事なものまで捨てて帰って来ないといけなかった。人を助けるとか相手のことを思うとかそんなことはできず、自分が生きることで精いっぱいだから押しのけてでも帰って来たと思う。情けなかったのだと思う」

つらい記憶を話すことの難しさ。初めは戦争の記憶がない自分に話せることはないと思っていたと言います。

◆遺族会の研修をきっかけに小学校で「語り部講演」…児童の反応に感動を覚えた正子さん

そんな中、正子さんは所属している遺族会の研修をきっかけに7月、初めて、小学校で語り部講演を行いました。講演を聞いた児童の感想に正子さんは感動したと話します。

(正子初美さん)
「戦争は止めたりすることはできないが、戦争をしてはいけないと早く止めた方が良いと訴えることはできると書いている。素晴らしいと思う」
「戦争は勝った方も負けた方もつらい思いをすると書いてある。子供もそう思っている。そう思ってくれたことがうれしい」

◆戦争の記憶がなくても…戦後守り抜いた平和を永続させるために「自分の言葉で」語り継ぐ決意

戦争の記憶がなくても、自分の思いを話すことで確かに届くものがある。正子さんは自分の言葉で話すことの大切さに気付かされたと言います。

(正子初美さん)
「上手く伝えられるか分からないが、この年で役に立てることがあったらやろうと気持ち」

亡き父と戦後を生き抜いた母から思うこと。

(正子初美さん)
「80年戦争をしなかったらこんなに飛躍・繁栄し、世界から訪ねてくるような国になった。やはり戦争をしてはいけない。戦争がないから今の時代があると思う」

戦後80年間守り抜いた平和をこれから先も続くものにするために。正子さんはこれからも自分の言葉で語り継いでいきます。

岡山放送
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