終戦の日から80年が経ち、福井県の80歳以上の人口は約11%と、9割近くが戦後生まれとなりました。戦争の記憶を次の世代に伝えようと、福井市の高齢者施設に協力を得て利用者に座談会の形式で戦争体験を語ってもらいました。
◆約9000発の焼夷弾が市街地を焼き尽くす
「空襲は地獄よりもっとひどかったって」
戦争について語ってもらったのは、福井市の高齢者施設「メイプルケア大宮」のデイサービスに通う4人です。
前田弘一さん(88)が思い出すのは、福井の中心部を焼き尽くした「福井空襲」のことだといいます。「空襲警報が出て逃げる用意して、家族全部集まって空襲警報解除になるのを待っていた。そしたら全然様子が変わって、バリバリーッていう音がしたかと思うと、B29が120機あまり飛んできたので、もういっぺんに状況が変わってしまって」
昭和20年7月19日の深夜、アメリカ軍が福井市中心部に約9000発の焼夷弾を投下。1500人以上が死亡しました。
◆親とはぐれた幼い兄弟
当時小学3年生だった前田さんと2つ年下の弟は、逃げる途中、家族とはぐれてしまいました。「僕と弟は防空頭巾をかぶって、手製のかばんにはいざという時のために入れてあったドロップとかそんなものを持っていきました。今となれば、よく1年生の弟が付いてきてくれたと思います」
松本地区から森田方面まで歩き続けたという幼い兄弟。周りの優しい大人の助けもあり、翌日、無事に家族に会うことができました。
◆逃げ遅れ…力尽きた父親
「私は空襲で父を亡くしました」
そう語るのは、高岡文子さん(98)。女学校を卒業し、花嫁修業をしていた高岡さんは、一家の大黒柱だった父親を空襲で亡くしました。「父は町内会長をしていて、町内のお年寄りを先に逃がしていたら自分も逃げ遅れて…」
翌日、自宅に戻ると、父親は玄関前で煙にまかれて亡くなっていたそうです。「お仏壇の三幅対あるでしょ、それをきれいに巻いてお腹の中に入れて亡くなっているのを見た。ほんとにあれはもうなんとも言われません」
◆海軍に憧れも…「戦争はするもんじゃない」
海軍の制服に憧れたという、奥山茂丸さん(94)。終戦の一年前、海軍航空隊に入り、奈良県で訓練の日々を送っていました。「どうせ世の中は、生きておっても軍隊に入るか、軍需工場に行くかどっちかやった。どうせならもう軍隊に入ろうと志願して入った」
ところが、思い描いていたものと現実は違いました。「海軍は白い帽子、白い服を着て短剣を差して、そのかっこよさに魅かれて海軍に入った。ところが短剣ももらえん。それはみじめなもんや」
終戦後、福井に戻った奥山さんは、一面の焼け野原を前に立ち尽くしました。
「ダーーーッと…家が1軒も建ってない。あれは本当にびっくりした。こんな戦争はするもんじゃないと思った」
◆食べる物にも困る厳しい生活
空襲があった夜、市街地から15kmほど離れた場所で、赤く染まる空を見ていたという礒田彰さん(92)。農村部でも戦中戦後の生活は厳しいものでした。
「戦争なんて、貧乏なこっちゃと思う。食料も…本当に食べられなかった。コメは田舎でも強制的に取られたでしょう。それで、あるものだけ食べてたわね。まちから疎開してきた18人が毎日、一緒に食べていたから」
◆戦争体験者からのメッセージ
過酷な戦中戦後を生き抜いた4人に、令和の時代を生きる若者たちに伝えたいことは何か、聞きました。
奥山茂丸さん(94):
「平和な時に生まれて平和な時に育っているから戦争の恐ろしさを知らない。今の若い人は、ひょっとするとまた日本は強くなって戦争やるかっていう…僕はそれが恐ろしい」
前田弘一さん(88):
「今、世界中で戦争ばかりでしょう。あれを考えるとひどいことになったなと思う。いいことは一つもない」
高岡文子さん(98):
「私らも娘時代だったが恐ろしかった。空襲とか。今の若い人は全然そういうことね、わかんない」
礒田彰さん(92):
「ひどい目に遭ったから。私らは。もう戦争なんでするもんじゃない。それだけ」