8月15日「終戦の日」の特集は元兵士の貴重な証言。太平洋戦争末期、いわゆる「特攻」で多くの若い命が失われた。その一つが「マルレ」と呼ばれた、爆雷を積んだ小型ボートによる「水上特攻」だ。元隊員が長野県岡谷市におり、現在97歳。奇跡的に生還した男性が思いを語った。

突然、「特攻部隊」に配属…

岡谷市の浜槙人さん(97)。小型のボートによる「水上特攻」の元隊員だ。

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浜槙人さん:
人間は死ぬまでの所まで追い詰められてもね、生きたいと思う。死にたかねえで

生きたい、死にたくない…特攻から生還した浜さんの率直な言葉だ。

写真提供:浜さん
写真提供:浜さん

昭和19年、陸軍に入った浜さんは「船舶特別幹部候補生」として、瀬戸内海で海上輸送や上陸の訓練を受けていた。
しかし突然、新しく出来た部隊に配属される。「海上挺進戦隊」。それは、特攻のための部隊だった。

“水上特攻”「マルレ」の戦いとは

浜槙人さん
浜槙人さん

戦局の悪化で追い詰められた日本軍は、兵士の犠牲を前提とした「特攻」を始める。小型ボートを使った「水上特攻」兵器として、海軍は「震洋」を開発。
そして陸軍も…

「マルレの戦史」より
「マルレの戦史」より

浜槙人さん:
これが俺たちが乗っていた船、ベニヤ張りだ。鉄の所なんて無えだ。鉄の部分なんてエンジンだけだ。木っ端舟。戦争中で物が無かったから、しょうがねえだ

ベニヤ板で作られ、自動車のエンジンを載せた長さ5メートル余りのボート。本来の目的を隠して「連絡艇」。頭文字を取って「マルレ」と呼ばれた。

CG イメージ
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「マルレ」の戦いとは…?

その戦法は、夜に敵の輸送船などにギリギリまで接近して爆雷を投下するというもの。離脱した直後に爆発する想定だったが…

浜槙人さん:
逃げるつもりで行くけれど、みんなそこ(敵艦)へ近づく前に、半分以上は機銃掃射でやられちゃう。残って逃げても、自分が(爆雷を)落とした所から30メートル以上逃げてねえと自分も巻き添えになって死んじゃうからね

実際には生還は難しく、アメリカ軍から「スーサイドボート」(自殺艇)と呼ばれることになる。

「並べば、みんなが特攻隊…」

浜槙人さん
浜槙人さん

それでも上官は…「諸君の体当たり戦法で、日本が救われる」
士官クラスは参加の意思を確認されたが、浜さんたち一般の隊員にはそんなことは無かったという。

浜槙人さん:
志願したり、一歩前に出ろとかそういうのは無くて、みんな並べば、隊員が。それがみんな特攻隊。みんながそうだもんで、どうしようもねえと思ったけど。本心はねえ、死にたかなかった

「捕まりゃ恥」 奇跡的に生還も…自決試みる

Google Earthより作成
Google Earthより作成

昭和19(1944)年12月、部隊は激戦地・フィリピンへ。2ヵ月前のレイテ沖海戦で連合艦隊が壊滅するなど、日本軍の劣勢は明らかだった。
昭和20(1945)年1月、いよいよ出撃のため移動することになり、夜の海に出たが…

浜槙人さん:
わしの奴(船)はね、エンジン故障して動かなくなっちゃたんで、他の連中を呼び止めたんだけど、エンジンの音で俺が呼んだ声なんて聞こえやしねえ。みんな行っちゃって

自動車から転用したエンジンは信頼性が低く、内地での訓練時から故障が相次いでいた。

浜槙人さん
浜槙人さん

浜さんら4人を乗せた「マルレ」は、大海原を漂い始めた。4日ほどで食料は尽き、飲み水も…

浜槙人さん:
海の水は飲んだもんなら5分も経ちゃあ、ここ(喉)がね、辛っぽくなってね。塩水だもんね、真水じゃなきゃダメだ、人間は。で、おしっこなんてダメだと思うけど飲んでみたくなるじゃん。飲むもの無えだで。ところがアンモニア臭くて、おしっこなんて飲めたもんじゃねえら

スコールを溜めて渇きを癒やし、海鳥を食べるなどして20日間も漂流。餓死寸前のところを助けてくれたのは、初めて会う敵の船だった。
その時、浜さんは短刀で腹を刺し、自決を試みる。戦陣訓で「生きて虜囚の辱めを受けず」と教え込まれていたからだ。

浜槙人さん
浜槙人さん

浜槙人さん:
捕まりゃ恥だから。否応なし。死ななきゃいけねえような、そういう軍隊の訓練だっただよ

しかし、アメリカ兵に止められ、死ぬことは出来なかった。

生き残った葛藤…家族にも体験を話せず

写真提供:浜さん
写真提供:浜さん

その後、フィリピンの捕虜収容所で終戦を迎える。「海上挺進戦隊」3100人は、約6割の1800人が戦死。ほとんどが10代で、多くが出撃も出来ず、乗っていた輸送船への攻撃や陸での戦い、飢えや病気で命を落としたという。
浜さんの中隊32人の内、生き残ったのは浜さんともう一人だけだった。フィリピンでの日本軍の戦死者は50万人にのぼった。

写真提供:浜さん
写真提供:浜さん

昭和22年に帰国した浜さんは、ふるさと・岡谷で電気店を始める。冷蔵庫にテレビ…。高度経済成長で日本は豊かになり、浜さんも子や孫に恵まれた。

写真提供:浜さん
写真提供:浜さん

しかし、生き残った葛藤から長い間、家族にも自分の体験を話せなかったという。

かつて敵同士…元米軍兵との再会

NBS月曜スペシャル「それぞれの戦争 それぞれの戦後」(1995年)より
NBS月曜スペシャル「それぞれの戦争 それぞれの戦後」(1995年)より

「久しぶり」

浜さんは、自分を助けてくれたアメリカ軍の兵士と戦後、再会。共に漂流した県内の男性と3人で会うことも出来た。

浜槙人さん:
(漂流中は食べる物が無くて)地下足袋のゴムを食べようとしたけど、噛めなんだ

NBS月曜スペシャル「それぞれの戦争 それぞれの戦後」(1995年)より
NBS月曜スペシャル「それぞれの戦争 それぞれの戦後」(1995年)より

元米軍兵・ブレディさん:
50年前、あの海の上で皆さんに会えて良かったと思っています

NBS月曜スペシャル「それぞれの戦争 それぞれの戦後」(1995年)より
NBS月曜スペシャル「それぞれの戦争 それぞれの戦後」(1995年)より

かつての敵同士に穏やかな時間が流れていた。

無謀な戦いの犠牲となった若者たちを悼む碑が、浜さんも訓練を受けた広島県の江田島に建てられている。香川県の小豆島にも記念碑があり、元隊員の出席が絶えた今も、慰霊の式が開かれている。

子や孫に…「戦争なんてやっちゃいけない」

足腰が弱くなった浜さんは、2021年から諏訪市内の施設に入っている。

浜槙人さん:
今になりゃ死なんで良かったよ。良かったよ。ありがたいと思う。生きてることが。死んじまえば、それっきりだで

2022年9月で98歳。戦争体験を語れる人が減る中、浜さんは「これだけは伝えておきたい」と話す。

浜槙人さん:
戦争なんてことは、やっちゃいけないてことを皆に、子や孫に言いたい。戦争なんてやっちゃいけないよ。殺しっくらいだで。殺しっくら(殺し合い)

(長野放送)

長野放送
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