シリーズでお伝えしている「語り継ぐ戦後80年」。
戦時中、警察による検閲や空襲を受けながらも舞台に立ち続けたある女性の一生を振り返る。
「ムーラン・ルージュ」トップスターの青春に戦雲迫る
日本舞踊家の明日待子さん。
当時92歳、札幌で娘と一緒に踊りを披露した。
「ムーランルージュはよかったですね。時代も良かったですね」(明日待子さん)
13歳のときに入団した「ムーラン・ルージュ」。

天真爛漫な性格と演技力の高さで、この東京・新宿の劇団で待子さんはトップスターをはった。

ムーラン・ルージュには待子さんを見ようと客が押し寄せるようになる。
そして活躍の場は劇場を飛び出して。
「小田原終点でございます。お忘れ物がございませんよう。右側からお降りを願います。お静かにいらっしゃいませ。皆さまさようなら」(待子さんのアナウンス)

有名飲料の初代イメージガール。
ほかにも百貨店やビールなどさまざまな企業の広告塔に起用された。

デビューしてまだ3年ほどだが、その人気ぶりはさながらアイドルだった。
しかし、戦争の影が忍び寄る。

敵性語として奪われた「ムーラン・ルージュ」の名前
中央大学で大衆文化などを研究している押田信子さんは11年前から待子さんのことを調べてきた。
「この『ムーラン・ルージュ』という名前がダメなので、ひらがなで『むーらん・るーじゅ』となった。これすらもうダメになってね、『作文館』という名前に変わってったんですね。そこに対してかなり抵抗があったということを待子さんは言っていた」(中央大学客員研究員 押田信子さん)
ムーラン・ルージュはフランス語で「赤い風車」という意味。
欧米の言葉は敵性語として禁じられ、劇場は名前を奪われた。

警察は劇の台本を検閲するようになる。

「兵隊さんが毎週来てました。学生さんも訓練した後、銃を片手に来てました」(待子さん)

「兵士である前に“私のファン”」
その頃、観客にも変化が。
「明日待子万歳」(学生たち)
「ムーランで待子さんが出ると『明日待子万歳』って始めたんですね」(押田さん)
「明日待子万歳」と叫んだのは満州へと送られる学生たちだった。
「ムーランにも憲兵たちがいた。彼らがすぐに飛んできてパンパンと(学生たちの)頬を打ったり身体ごと引きずり回したりした。『何やってるんだ』と連れて行って待子さんたちはただ茫然としていた」(押田さん)

その時の心情を待子さんは自伝に記していた。
「舞台と客席が非常に近いこともあり直に学生さんたちの悲壮な気持ちが伝わってくるのですから踊るほうも辛かったです」

「万歳」と叫ぶ学生たちに待子さんが客席へ下りて伝えた言葉があった。
「武運長久をお祈りいたします。必ず戻ってきてくださいね」(待子さん)
「国のために命を捧げる」のが当たり前とされた時代。

なぜこのような言葉をかけたのか。
「兵士である前に私のファン。みんな戦争で青春を奪われてしまった(と待子さんは言っていた)」(押田さん)
劇団の団員と共に待子さんは満州へ赴き兵士を慰問する。

「(兵士は)もちろんうれしいじゃないですか、国から離れて。手足がない兵士たちが手で拍手することができないので頭や体全体で嬉しくて揺らしていたと待子さんから聞いた」(押田さん)
舞台に立っていたとき空襲に遭い観客と一緒に逃げたことも。
それでも防空頭巾をかぶって見てくれる観客のために待子さんは舞台に立ち続けた。
「私たちはもう滅私奉公でね、一生懸命自分に与えられた芸術でお慰めできればいいと思って一生懸命でした」(待子さん)
1945年、ムーラン・ルージュは空襲でほとんどが焼け落ちた。

“明日流”の家紋にムーラン・ルージュの「風車」
「ご無沙汰しております」(押田さん)
待子さんの研究を続けてきた押田さんを、次女の明日淑紀さんが迎えてくれた。
「まっちゃんが待っててくれました」(押田さん)
この日は命日。
待子さんは2019年7月、99歳で亡くなった。
押田さんが持ってきたのは2025年2月に東京で見つけた雑誌だ。
「戦後2年経ってやっぱりまだ混乱してますよね」(押田さん)
「今だったら大したことはないと思われるかもしれないですけど、艶っぽいもの(写真)を載せてるというのがおもしろいなと思う」(明日淑紀さん)

待子さんは結婚を機に札幌へ移住。
日本舞踊を広めるため教室を開く。

「最初は明日待子さんが教えるっていって面白がって来てくれました」(待子さん)
”明日待子”人気は北海道でも健在だった。
一時は300人ものお弟子さんを取ったという。

「車いすでも何でもいいから最後まで力振り絞って舞台を務めるように頑張りましょうねと(稽古を)続けていました」(淑紀さん)
体調がよくない日でも自宅のベッドの上で扇子を振り、稽古をしていたという待子さん。
かつてお弟子さんを指導していた場所に、いまは淑紀さんが座る。
「母はよく役に立つ、役に立たないと私にいろいろと言っていた。今になってみれば『自分の役に立つ』ではなく『人の役に立つ』なのかなと思ってきた」(淑紀さん)
淑紀さんは日本舞踊明日流の家紋に母への思いを込めた。

ムーラン・ルージュの「風車」をイメージしたのだ。

希望をもって“明日を待つ”心―三代でつなぐ
孫の淑豊さん。
3歳のときから待子さんに踊りを習ってきた。
「舞台の上では女優になりなさいというのを小さい頃に(祖母が)あちらで見てくださったときに言われて。祖母が宗家の初代で、母が2代目で。義務じゃないですけど守っていきたいなというのは私の中にもあります」(淑豊さん)

希望を持って「明日を待つ」。
待子さんはこの芸名を生涯大切にしてきた。

「もう二度と戦争は嫌だと思いますよ。やっぱり私はそういう時代でしたから過ごしてきましたけどだめですね。おっかない」(待子さん)
