越前焼の産地・越前町は、かつてタコつぼ漁が盛んで、タコつぼには越前焼が使われていました。
次第にプラスチック製などに置き換わる中、今でも越前焼のタコつぼを使う漁師がいます。この漁師を取材すると、越前焼とタコつぼの切っても切れない歴史が見えてきました。
越前町の茂原漁港。戻ってきた漁船の上には、タコの姿が。
「荒海の外海なので、荒海に耐えられるようなしっかりしたタコが多い」こう話すのは、越前町に住む漁師・川嶋講三さんです。
漁に使っているタコつぼは、実は越前焼で作られたものです。
「私が物心ついたときに、祖父や父が50年、70年前から使っていたものです」川嶋さんは「織田の、越前焼のタコ壺を作る業者のところへ荷車で取りに行って満載にし、1日がかりで家まで運んだ」と当時を振り返ります。
現在のタコ漁は、プラスチック製のつぼやかごを使うのが主流で、越前焼のものを使うのは川嶋さん以外いないそうです。
「親が大事に使ってきた越前焼のタコつぼを大事にしたいし、愛着があるので」
5月、川嶋さんの漁に同行しました。
港を出て1キロほど沖に進むと、タコつぼを海底に仕掛けた場所に到着。一つ一つ引き上げ、タコが入っているかどうかを確認していきます。
「はえ縄漁」という漁法で、600メートルほどあるロープに、1.5メートル間隔でタコつぼを計40個つなげ、沖合の海底に沈めておきます。
タコは暗く狭いところを好む習性を狙って、つぼにおびき寄せます。川嶋さんは、これを1はえとして、8はえを仕掛けています。
「320個は入っているけど、そのうち150以上は越前焼」
引き上げていくと、次々とタコが出てきます。「きょう取った中では一番大きいですね。水温が高くなるにつれて漁獲量は増えるので」そう言って黙々と漁を続ける川嶋さん。「もともと海が好きですから最高ですね」と笑顔を見せます。
平安時代末期に始まった越前焼の歴史。室町時代には北前船での輸出が始まり一大生産地になりましたが、江戸時代に高級路線には移行できず、明治に入っても近代化の波には乗れませんでした。
そこで窯元たちは、生計を立てるため大量生産に舵を切ります。明治から昭和50年頃にかけての主力商品一つが「タコつぼ」だったのです。
県陶芸館の橋詰果歩学芸員は「戦後になると、越前焼ではタコつぼ、そば皿、便つぼとして使われていた水がめなどを主力に焼いていたとされている。基本的に大量生産することができて、日常での器として需要があるものを作っていた」とします。
中には、生産する全体の約2割がタコつぼだったという工房もありました。
越前焼の窯元の一人で、県陶芸館に務めている日向光さんは、当時、窯元たちがタコつぼを作る様子を間近で見ていました。「そりゃ早かった。1時間に20個や30個は作っていた。僕らが行って質問やなんやしても、手を休めずに。自分の動いている間は賃稼ぎになるから、休んでる時間がもったいないという感じでやっていた」
一度に1000個単位でタコつぼを焼き上げていたといいます。
ただ、昭和50年頃からは、漁師たちは越前焼からプラスチック製のつぼを使うようになっていきます。
日向さんは「プラスチックはどうしても長持ちするので、割れやすいタコつぼはすっとなくなっていきましたね。昭和40年代は何とか作っていたけど、50年代になったらほとんどなくなった」と話します。
8月3日、越前町で、かつて盛んに行われていた越前焼のタコつぼ漁を体験するイベントが開かれました。
地元のまちおこし団体「Team越前夢おこし」が地域のタコつぼの歴史に着目し、漁を間近で見学するだけでなく、つぼも越前焼の工房で新たに作ってしまおうという体験プログラムです。
参加者は、6月につぼの表面に文字や絵を刻み、焼き上がったものを川嶋さんが仕掛けました。
つぼを引き上げていくと…大きくて生きのいいタコが。大漁です。
参加した人たちは「漁師さんやいろんな仕事をしている人たちが、越前町を一緒に盛り上げていこうとしているのに感動している」と話していました。
川嶋さんも「きょうはたくさん入っていたし…海の神様が越前町のためにやってくれたのかな」と満足気です。
伝統工芸の越前焼、昭和にかけて栄えたタコつぼ漁、そして、海の恵み。長く越前町の生活を支えてきたものは、時代を超えてつないでいきたい「宝」でした。