2025年で戦後80年。岡山空襲を経験したろう者と、それを次の世代に伝えようと活動する人を取材した。

「花火のようで怖かった」何も聞こえない中で見えたのは「B29」から降り注がれる焼夷弾

「花火みたいに一発だけではなくて、焼夷(しょうい)弾がいっぱい落ちてきてびっくりしたけど本当に怖かった。(Q;音は聞こえた?)聞こえない」

こう話すのは、生まれつき耳が聞こえない平井肇さん(91)。10歳の時に岡山市中区の自宅で岡山空襲に遭った。

1945年6月29日未明。アメリカ軍の爆撃機が岡山市中心部に約9万5000発の焼夷弾を投下。1700人以上が死亡、市街地の約6割が焼失した。

あの日、平井さんの父が2階の窓を開けると(街が)燃え上がるのを見て驚き、家族みんなで家の門に集まった。空から降り注ぐ焼夷弾を目の当たりにした平井さんだが、空襲警報は聞こえず、祖母におぶられ逃げたという。

空襲警報は耳が聞こえないからわからなかったと語る平井さん。

「B29が見えて、たくさんの焼夷弾が落ちてきて、花火のようで怖かった」

10歳の時に岡山空襲を経験した 平井肇さん(91)
10歳の時に岡山空襲を経験した 平井肇さん(91)
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生まれつき耳が聞こえない平井さんが命の危険が身近に迫っていたことを知ったのは空襲の「翌朝」

そして翌朝、平井さんは自宅近くの田んぼで命の危険が身近に迫っていたことを思い知る。

平井さんは空襲にあった場所と思われる場所で「広くないあぜ道が通っていて、周りは田んぼだった。ここに3メートルくらいの焼夷弾が落ちているのを見た」と証言。不発に終わった焼夷弾が自宅の数メートル先に落ちていたそうだ。

その時の光景は80年たった今でも鮮明に覚えている。

平井肇さんの思いは「戦争は嫌だ。世界中が平和になってほしい」。

焼夷弾イメージ
焼夷弾イメージ

ろう者の空襲体験を聞き、記事にする72歳女性 耳が聞こえず入隊できないのに「非国民」と呼ばれた父の影響を受ける

(新聞記事)
「ろうあ者たちは不安な日々を過ごし、辛かったと思います」
「今後2度と戦争を繰り返さないよう、切に望みます」

ろう者の空襲体験を聞き取り、聴覚障害者向けの新聞に記事を投稿している人が岡山市にいる。生まれつき耳が不自由な阿部まゆみさん(72)。活動のきっかけはろう者だった父の影響だった。

20年ほど前に他界した父の中吉正さん。戦時中、召集令状が届いたものの、耳が聞こえないという理由で入隊できなかったという。

待っていたのは思わぬ批判だった。

「父は兵隊に行きたかったのに行けなくて、非国民だと言われたことが悔しかったと話していた」

正さんは岡山空襲の際、住んでいた倉敷市から自転車で1時間かけて岡山市内に向かい、ろう者の安否を確認して回った。しかし、正さんは健聴者に話を聞いても無視されて、話さえできない状態だったと、阿部さんは話す。

阿部まゆみさん(72)
阿部まゆみさん(72)

「戦争があったらろう者は大変…誰も助けない、死ぬだけだ」父の思いを胸にろう者の戦争体験を語り継ぐ

こうした理不尽な経験が埋もれてはいけない。終戦後、正さんは岡山県ろうあ連盟の役員としてろう者のもとを訪ねて戦争の話を聞く活動を続けた。

岡山空襲体験者から話を聞いた正さんによると、戦闘機が来たから行くよと聞いても(戦闘機の音が聞こえないから)わからず、手を引っ張られたり、首を引っ張られて外に逃げた。防空壕に隠れても、ろう者にとっては「なぜここにいるのか」がわからず、ストレスが溜まっていたという状況があった。「ろう者は戦争が終わったことも理由もわからない」というのだ。

阿部さんは今、2025年の冬に刊行される機関紙の終戦80年の記事に向け、戦争を体験したろう者から聞き取りを行っている。この日は5歳で岡山空襲を経験した内藤敦(つとむ)さんから話を聞いた。

内藤さんは当時のことについて「戦争がわからなかったので、戦闘機を見て楽しんでいた。すると母がそれは(敵の戦闘機だから)ダメだと言った」という記憶を語る。

また、もし現在において戦争があったとしたら「ろう者は大変だと思う。誰が助けてくれるのか。誰も助けない、死ぬだけだ」ということを見据えている。

「ろう者の経験を次の世代に伝えたい・・・」父はその思いを、自分に託したのだと強く感じている阿部さん。「父と同じ気持ちで、手話でしか伝わらない思いを伝えたい」と今後の活動の抱負を語った。

80年経った今、手を取り合える世の中になっているのか、改めて考える必要があるのではなかろうか。

(岡山放送)

5歳で岡山空襲を経験した内藤敦さん
5歳で岡山空襲を経験した内藤敦さん
岡山放送
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