プロ野球に偉大な足跡を残した選手たちの功績、伝説を德光和夫が引き出す『プロ野球レジェン堂』。記憶に残る名勝負や知られざる裏話、ライバル関係など、「最強のスポーツコンテンツ」だった“あの頃のプロ野球”のレジェンドたちに迫る!
走攻守そろった遊撃手として活躍した野村謙二郎氏。1991年には2年連続盗塁王に輝き広島のリーグ優勝に貢献。1995年には史上6人目、左打者としては初となるトリプルスリーを達成した。通算2020安打。盗塁王3回、最多安打3回。広島カープ一筋17年の“レジェンド”に徳光和夫が切り込んだ。
【前編からの続き】
ソウル五輪で銀メダル獲得

1988年のソウルオリンピックに、大学4年生だった野村氏は日本代表の一員として出場した。当時の日本代表はアマチュア選手だけで構成され、社会人が17人、大学生はわずか3人だった。日本は決勝でアメリカに5対3で惜しくも敗れたものの、銀メダルを獲得した。
野村:
オリンピックは覚えてますね。
徳光:
主力メンバーでしたよね。

野村:
最後のほうは控えになったんです。あのときのメンバーはすごいメンバーだったんで。
徳光:
大学生は、野村さんと慶應の大森(剛)さん(のち巨人・近鉄)と中央の笘篠(賢治)さん(のちヤクルト・広島)の3人だけですよね。
野村:
はい。年齢が低いのは、笘篠君と僕と大森と野茂(英雄・新日鉄堺から近鉄・ドジャース等)と潮崎(哲也・松下電器から西武)だったんで、選手村で常に先輩のパシリになってて、食堂に行ってジュースをスポーツバッグに入れて帰ってきたりとかしてました。
徳光:
一番、人使いの荒い先輩は誰だったんですか。
野村:
いやいや、それは言えません(笑)。
徳光:
この銀メダルはご自分の野球人生の中で勲章ですよね。

野村:
そうですね。オリンピックですからね。決勝で負けた瞬間は鮮明に脳裏に焼き付いてます。でも、銀メダルを首にかけてもらったときには、オリンピックに出られたっていうのを実感しました。入場行進も参加させてもらいましたし、カール・ルイスも目の前で見られましたし。
徳光:
なるほど。
元々は学校の先生になろうと思って野球に打ち込んだにもかかわらず、だんだん上達して、オリンピック代表に選ばれるほど大学野球界のエリートになったわけですけど、プロは何年生くらいのときから意識されたんですか。
野村:
3年生くらいからプロに行けるかもしんないなっていう意識がありました。それまでは全然なかったんですけど。
徳光:
太田さんとは相談したわけですか。

野村:
聞かれたのは「どこのチームに行きたい?」ってことですね。プロ野球の球団に入るのも社会人になるってことですし、自分の能力を生かしたいっていうのがあったんで、憧れとかそういうんではなくて、スピードを生かせるチームって思ってました。そうなると広島と当時はスーパーカートリオが活躍していた大洋(現・DeNA)。あとは強かった西武。それと神宮球場でやってたんでヤクルト。「この4球団以外なら社会人に行きます」って監督には伝えてました。
徳光:
巨人は入ってなかったんですか。
野村:
憧れだったんですけど、やっぱり入ってなかったです。
谷繁元信氏と逆だった!? ドラフト1位指名

1988年のドラフトで野村氏は希望球団のひとつであった広島に1位指名された。しかし、大洋に指名されるという話もあったという。
野村:
当初は大洋という話でした。広島の1位は谷繁(元信)だったらしいです。これは後々聞いた話なんですけど、山本浩二さんが初めて(広島の)監督に就任する年で、大下(剛史)さんがヘッドコーチ。大下さんは僕が(駒澤大の)後輩なんで、僕をカープに入れたかったというのがあったみたいです。でも、広島は達川(光男)さんの後釜で谷繁君を取るっていうことで、ほぼほぼ決まってたらしいんですよ。
徳光:
ほう。

野村:
大下さんが「野村を取らないならヘッドコーチを降りる」っていうようなことを言ったらしくて、そこで変わったらしいです。
徳光:
へえ。面識は元々あったんですか。

野村:
僕が大下さんに初めて会ったのは1年から2年になったときのキャンプです。大下さんがキャンプに教えに来られた。そのときの大下さんの第一声は、広島弁で言うと「野村いうのはどこにおるんな」だったわけですよ。僕が「えっす」って言って手を挙げた。「おう、出てこい」って言われて。そしたら、大下さんが「監督、殴っていいですか」って聞くんですよ。えっ、初めて会うのに殴っていいですかってどういうことって思うじゃないですか。なのに、監督も「いいだ」って言うわけですよ。「おどりゃあ、お前、調子に乗るな」って言って、パカパカパカって殴られたんですよ。
さっき、僕は大学の初めての試合で6打数6安打だったって話をしたじゃないですか。だから6打数6安打で調子に乗るなという意味合いだと思うんです。そういうのがあって、多分、自分の目で見たかったっていうか…。
徳光:
そうか、パカパカパカが名刺代わりだったわけですね。
野村:
名刺代わりだったんでしょうね。
“鬼軍曹”大下コーチ 鉄拳指導でケガから回復!?
徳光:
広島入団後も大下さんにはかなり気合いの入った指導をされましたか。

野村:
されましたね。キャンプの2日目で足を痛めて、歩行もままならない状態だったんです。だから、一軍が来ても二軍のグラウンドで、ユニホームを着たまま歩いてたんですよ。そしたら、大下さんがダダダダッて二軍のグラウンドまで走ってきて、「野村、どこにおるんだ?」って言って、「お前はいつまでこんなことしてるんだ」って、マスコミの人たちがいる前でバカバカバカバカって殴られて…。そしたら徳光さん、次の日に足が治ったんですよ。
徳光:
いやいやいや…。
野村:
いや、ほんとに治ったんですよ。
徳光:
ほんとですか。
野村:
治ったんですよ。それで、その次の次の日くらいに一軍の練習に参加することになったんですよ。それまでトレーナーの方が、電気治療だったり、はりを打ってくれたりとか、10日間くらい一生懸命やってくれて治らなかったのが、殴られたら治っちゃったんですよ。
徳光:
なるほど。やっぱり大下さんは、野村さんが広島に来てくれたことがうれしかったんだね。
野村:
そうでしょうね。厳しかったんだけど、何か愛情は感じましたね。

野村氏のプロ1年目の成績は88試合に出場して打率2割5分8厘。盗塁は21を記録した。
徳光:
1年目で盗塁21はすごいな。
野村:
でも、ほとんど代走だと思いますけど。
徳光:
代走で盗塁21ですか。去年のセ・リーグだったら盗塁王。(編集部注:2024年のセ・リーグ盗塁王は阪神・近本光司選手の19)
野村:
いや、徳光さん、野球が進化してますよ。今はもうとてもじゃないけど、こんな数字は出せません。
名ショート・高橋慶彦氏のあとを継ぐプレッシャー
徳光:
当時の広島って、まだ(高橋)慶彦さんがいたじゃないですか。

野村:
そうです。僕が1年目のときは慶彦さんがショート。慶彦さんは次の年にトレードでロッテに行かれて、そこから僕がショートを守るようになったんですけど、当時は相当なプレッシャーでした。
徳光:
やっぱり慶彦さんの次のショートは野村謙二郎だっていう青図ができてたんじゃないですかね。
野村:
そうだったと思うんですけど、高橋慶彦さんですからね。僕らがずっと憧れてたショートストップですよ。
徳光:
そうですよね。
野村:
慶彦さんのトレードが決まってからのキャンプは、もう僕1人のために、ほとんどのコーチが休みなしで出てきてくれて、そのプレッシャーにも負けそうになって…。ゴロを捕る捕り方も分かんなくなるくらい、おかしくなりました。ショートを守る人間がボールを捕って前転したりするんですよ。
徳光:
へぇ。
野村:
自分でも「何やってんだ」っていうような感じでした。もうとにかく1日が早かったです。練習して、夜間練習も終わってシャワーを浴びて10時くらいに寝て、そしたら、もう目覚ましが鳴るという…。それが3週間ぶっ通し。
徳光:
続いたわけですか。当時の守備コーチはどなたですか。

野村:
三村(敏之)さんですね。
徳光:
三村さんも名ショートでしたからね。
野村:
三村さんには、もうほんとにお世話になりました。広島のキャンプ地の宮崎の天福球場から宿舎まで歩いて帰ってるときに、ユニホームを着たまま2人でラーメン屋さんに入ってカウンターでラーメンを食べましたね。何かすごくいいこと言ってくれて、涙を流しながら「ありがとうございます」って言ってラーメンを食べた思い出とかありますね。
徳光:
そういったようなことも成長の糧にはなったわけでしょうね。
野村:
そうですね。自分のメンタルがへこんでいったときには誰かが支えてくれるっていう、その繰り返しだったような気がします。
野村氏はプロ2年目からレギュラーに定着。この年は125試合に出場し、519打数149安打、打率2割8分7厘、16本塁打、33盗塁の成績を残し、盗塁王のタイトルを獲得した。

野村:
シーズンが終わってこの数字が出たときは、やったというよりもホッとしたという感じでした。その後、3割を打つこともあったんですけど、この数字が一番うれしかったですね。プレッシャーの中で野球やって…。
徳光:
これは、慶彦さんの穴を埋めたって感じだったんじゃないですか。
野村:
慶彦さんだと盗塁のイメージがありますよね。慶彦さんの数字には全然追いつかないんですけど、盗塁の数字がやっぱり僕の中では一番うれしい数字でしたね。
プロ3年目にリーグ優勝

翌1991年、野村氏は524打数170安打、打率3割2分4厘、10本塁打、31盗塁の成績で、2年連続盗塁王のタイトルを手にし最多安打にも輝いた。
徳光:
3年目には3割打って2年連続盗塁王、最多安打、広島の野村謙二郎どころかセ・リーグを代表する内野手になったわけですよね。
野村:
この年はリーグ優勝もできたんでね。初めてのリーグ優勝で、あと何回できるかなと思ったんですけど、結局その後はできなかったんですよね。
徳光:
ただ、この年、野球ファンにとって忘れられないのは津田恒実さんです。

気迫あふれる投球で「炎のストッパー」と呼ばれた津田恒実氏は1991年4月に脳腫瘍が判明(当初は水頭症と発表された)。チームからの離脱を余儀なくされ、93年7月に亡くなった。
野村:
津田さんが、まさかああいう病気にかかられるとは思ってなくて、その年の合言葉は「ツネのために絶対優勝するぞ」でした。山本浩二監督がずっと言ってました。
徳光:
西武との日本シリーズでは3勝4敗で敗れてしまいましたが、あの強い西武によくぞ3勝4敗までいったって私は勝手に思ってたんですけど、あの日本シリーズはどうでしたかね。

野村:
初戦に先発した佐々岡も沢村賞とかタイトルを5冠くらい取って、西武に挑んでいったんですけど、あんなに打たれた佐々岡は見たことないくらいに打ち込まれて…。僕も何か舞い上がってしまって1イニングで2つエラーとかして、これは多分、日本シリーズの記録だと思うんです。2人でホテルにいられない雰囲気で、立川のパチンコ屋で、ずっと無言のまま1時間くらいやって、次の会話は「腹減ったな」って…。すっごいへこんでた日本シリーズの初戦でした。
徳光:
そうですか。
野村:
でも徳光さん、考えてください。あのときの西武。高校野球みたいに整列したら、西武とカープの身長差はすごいですよ。西武は清原、秋山、デストラーデ…。みんなでっかい人ばっかりで。
【後編に続く】
(BSフジ「プロ野球レジェン堂」 25/6/3より)
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