プロ野球に偉大な足跡を残した選手たちの功績、伝説を德光和夫が引き出す『プロ野球レジェン堂』。記憶に残る名勝負や知られざる裏話、ライバル関係など、「最強のスポーツコンテンツ」だった“あの頃のプロ野球”のレジェンドたちに迫る!
走攻守そろった遊撃手として活躍した野村謙二郎氏。1991年には2年連続盗塁王に輝き広島のリーグ優勝に貢献。1995年には史上6人目、左打者としては初となるトリプルスリーを達成した。通算2020安打。盗塁王3回、最多安打3回。広島カープ一筋17年の“レジェンド”に徳光和夫が切り込んだ。
父親はリアル「巨人の星」!?
徳光:
今回のゲストは、左バッターとしては史上初めて3割・30本・30盗塁を達成したレジェンド、野村謙二郎さんです。どうぞよろしくお願いします。
野村:
左バッターで僕が初めてだったんですか。全然知らなかったです。
徳光:
ええっ。知らなかったんですか。

野村:
左で初めてっていうのは知らなかったです。僕、そういうの疎いんですよね。
徳光:
それは意外ですね。
さて、野村さんは大分県のご出身ですけど、ご家族はかなりのアスリートだったそうですね。
野村:
そうですね。親父は普通に野球を高校までやってて、おふくろは日体大卒で体育教師を目指してたらしいです。
徳光:
お母さんは何の競技をされてたんですか。
野村:
陸上をやってました。
徳光:
じゃあ、足の速さはお母さん譲りなんだ。
野村:
それを言うと、親父は「いや、俺も速かった」と言ってましたね(笑)。あと、伯父さんが元カープの選手で…。
徳光:
誰ですか。
野村:
八木っていうんですけど、そんなに長くやってなかったので名前は知られてないんですが…。
徳光:
明治大学出身の八木孝さんですか。俺のひとつ上ですよ。
野村:
そうですか。知ってるんですか。すごいですね。
徳光:
いやいや。八木さんが伯父さんなんですか。
野村:
はい。子どもの頃は野球を教えてもらってました。

八木孝氏は、野村氏と同じ佐伯鶴城高校から明治大を経て1963年に広島に入団した元プロ野球選手。投手としてプロ入りし3年目から外野手に転向、1969年まで7年間プレーした。
徳光:
お父さんも野球をやってらしたんですね。
野村:
そうです。父親の1個下が阿南(準郎)さんです。
徳光:
阿南さんも佐伯鶴城高校ですよね。
野村:
はい、僕の先輩です。
徳光:
ということは、お父さんは高校の先輩でもあるわけですか。
野村:
そうです。父親も野球をやってたんですけど、親父は「大学から誘われたんだけど、商売を継がなきゃいけなかった。野球は高校までしかできなかった」って言ってました。なので、それを僕にやらせたかったんだろうなと思います。
徳光:
ということは、そのお父さんが相当厳しく野球を教えたんですかね。

野村:
厳しかったですね。小学校1年生のときにグローブ買ってもらって、「壁当て100回」というのをやらされましたね。壁当て100回でエラーをしたら1からやり直し。朝10時から夜の7時くらいまでぶっ通しで。
徳光:
まるで星一徹ですね。
野村:
だから、「親父は『巨人の星』をそのままやってるんじゃないの」って思って…。
徳光:
なるほど(笑)。プロ野球はどうだったんですか。九州ですと、やっぱりライオンズファン。
野村:
いやいや、ジャイアンツファンです。
徳光:
そうですか。お父さんもですか。
野村:
親父は大の長嶋さんファンです。うちに長男が生まれてちょっとしてから、親父にプレゼントしたいからと、長嶋さんに抱っこしてもらった写真を送ったらすごく喜んでました。
徳光:
そうですか。
ちょっと心配なのは、長嶋さんは写真の撮影が終わったとたんに、赤ちゃんを落としたりはしませんでしたかね(笑)。

野村:
いや、しなかったです。でも、明らかに赤ちゃんなのに、「もうすぐ1年生?」って(笑)。「あ、聞いた通りの人なんだ」って思いましたね。
長嶋さん、すいません!
中学時代に山本浩二氏についたウソ
徳光:
巨人ファンでいらっしゃったということですけど、伯父さんの影響もあって、広島のキャンプに行かれたりとかはしてたんですか。
野村:
キャンプに初めて行ったのは、やっぱりジャイアンツです。子供の頃に王さんとか長嶋さんとかを見て、「うわっ、すごいな、大きいな」って…。その後に広島のキャンプにも行きました。
中学校のときにオープン戦が田舎であって、僕はバットボーイをしたんですよ。そのときが山本浩二さんとの最初の出会いなんです。
徳光:
へぇ。

野村:
僕が椅子に座ってたら、山本浩二さんが隣に来て「僕、どこのファンだ?」って聞かれて、でも、カープの選手の前で「ジャイアンツ」って言えないじゃないですか。「広島です」って言ったら、浩二さんが「ウソつけ」って。「お前、巨人ファンだろ」って。「いや、カープファンです」って言ったら、「そうか、頑張れよ」って言われたのが最初です。
徳光:
野村さんは、その中学生の頃に頭角を現すわけですかね。
野村:
僕はもともと右打ちで、中学生の頃はまだ右で打ってたんです。
徳光:
そうなんですか。
野村:
それで、2番でバントしたりとか8番とかで、試合には出られたんですけど、あんまり目立つような感じではなかったです。体もちっちゃかったですし。高校に入るときに、やっぱりもっと打ちたいなって思って、左打ちにしたんです。それこそ篠塚さんに憧れて…。

徳光:
そうですか、シノさんに憧れたわけですか。
野村:
“大憧れ”です。篠塚さんは二軍のときに、うちの田舎に来たのを見てるんですよね。こんなに細い人が…って思いました。僕もちっちゃくて細かったんでね。学校で掃除の時間にピンポン球をほうきで打ったりしてましたけど、「篠塚!」とかって言いながら流し打ちしてました(笑)。
実はPL学園に行きたかった
徳光:
佐伯鶴城高校って進学校ですよね。
野村:
そうですね。テレビで言うのは初めてなんですけど、本当はPL学園に行きたかったんです。
徳光:
じゃあ、かなり本格的に野球じゃないですか。

野村:
いや、自分の力うんぬんというよりも、PL学園に行ったら甲子園に出られると思ってたんで、そこでレギュラーになるとかならないとか考えてなかったです。
徳光:
言ってみればスタンドで応援でもいいやという…。
野村:
そうですね。PLが強かったときなんで、甲子園に行けると思ってました。でも、「行きたい」って言ったら親父と大げんか。「地元の高校に行かないんだったら応援しない」と。
徳光:
親父さんのレールがあるわけだ。
野村:
そうですね。
徳光:
お父さんのその一言であきらめたんですか。
野村:
いや、もうそれしか選択肢がなかったです。
徳光:
それで、佐伯鶴城高校は野球も強かったんですか。
野村:
当時は県大会ベスト8くらいまでは行けるかなっていうくらい。

野村氏が3年生だった1984年夏の大分大会で佐伯鶴城はベスト4に進出。準決勝では柳ヶ浦高校相手に4対0とリードを奪ったものの、そこから6点を奪われ6対4で逆転負け、憧れの甲子園には手が届かなかった。
徳光:
甲子園に行けなくてプロの目には留まらなかったかもしれませんけど、俊足巧打のバッターがいるっていう評判は立ったんじゃないですか。

野村:
いや、なかったですね。僕もちょっとは期待したんですけどね。
今でもあるのかな、昔、高校野球の雑誌ってあったじゃないですか。表から開くとカラーのページがあって、それこそKKコンビとかが載ってるわけです。一応、僕も自分の名前を探すのは探したんです。裏からめくってったら、ちっちゃい字で僕の名前があった。表と裏でこんなに差があるんだって思いました。
徳光:
でも、やっぱり大学でも野球を続けようとは思ったわけですか。
野村:
おふくろが「必ず大学は行きなさい。その中で自分のやりたいことを決めなさい」って言ったんです。高校時代、先生からウケが良かったのか、「教員になって帰ってこいよ」って言われてて、実際に駒澤大学ではない違う大学の推薦を頂いてたんです。
徳光:
例えば教育大学とかですか。
野村:
いえいえ、原監督の…。
徳光:
東海大。
野村:
はい、東海大の体育学部で。
徳光:
それが駒澤大学になったのはどうしてなんですか。
野村:
駒澤大学の太田(誠)監督が来られて「うちに来ませんか」って言われて、親父が「はい」って言っちゃった。
徳光:
お父さんの権限が強かったわけですね。
野村:
はい(笑)。
徳光:
太田さんは野村さんをどうやって見つけたんですかね。
野村:
太田さんが社会人の全日本チームのときにクリーンアップを打ってた人が佐伯鶴城の先輩で、「お前のところにいい選手いないのか」っていう話から僕のことを言ってくれたみたいです。
徳光:
でも、自分の道はこれでいいんだろうかとかって悩んだりはしなかったんですかね。

野村:
でも、まず神宮球場で野球ができるっていうのがありました。それに、中畑(清)さん、石毛(宏典)さん、他にもたくさん先輩がいられるんですけど、あの2人が出てる大学ですから、そこで野球を学びたいなっていうのはありました。もちろん学校もちゃんと行きながら、最終的には教員になるっていうのが目標だったんですけど。
徳光:
駒大に入ってもですか。
野村:
はい。
徳光:
そうなんですか。プロではなくて。

野村:
そのときはプロっていうのはなかったですね。野球を学んで教員として地元に帰るっていう気持ちが自分の中ではあったんです。でも、いざ入ってみると、もう大学の野球が毎日楽しくて。厳しいんですけど、今日はどういうことを教えてくれるんだろうって。大学では教えてくれる先輩もたくさんいましたし。
警察が出動…バントの構えで成城を一周
徳光:
1年のときから試合に出てらっしゃいましたよね。
野村:
1年から使っていただけました。周りは甲子園ボーイばっかりなので、まさか1年生から使ってもらえるとは思ってませんでした。それこそ雑誌で見た顔ぶれが何人かいるわけですよ。「こいつらには、かなわない」って思ってたんです。
でも、やってみると、俺もできるんじゃないの?って…。そういう評価もあったときは、毎日の練習が楽しかったですね。「甲子園とかでしか見たことない選手と、そんなに変わんない」って思えたときが、ターニングポイントだったのかなって思いますね。
徳光:
太田さんはしっかり見てたんですね。だからこそ1年春のリーグ戦から使ったんだと思うんですけど、その期待に見事に応えるじゃないですか。
野村:
そうですね。
徳光:
デビュー戦から大活躍。

野村:
6打数6安打ですね。
徳光:
6の6だもん、1年生で。
野村:
太田さんは怖いイメージなんですけど、面白い方でもあるんですよね。野球の練習の方法や作戦面でも、すごくアイデアを持ってるんです。
徳光:
ユニークな練習をされたみたいですね。
野村:
してましたね。バントって普通はバットを横に構えるじゃないですか。それを、「お前ら、集中力が足りない」と言って、今度は、「体の前に直角に構えてバントしろ」って言うんですよ。バットの先っぽに当てる。
徳光:
ええっ。

野村:
もう「はい」しかないんで、言われた通りにやるんですけど、正面に構えてますから、ここ(バットの先)に当たらないと体に当たるじゃないですか。実際に当たりましたけど…。
徳光:
(笑)。

野村:
次は「構え方が遅い」。だから、「バントを構える練習をしながら、成城を一周してこい」。それで、外に出て「野村」って書いてあるユニホームを着たまま、歩きながらバントを構える練習。普通の道路ですよ。
徳光:
本当ですか。

野村:
車を避けながら、「イチ、ニッ、サン! ニー、ニッ、サン!」ってバントして…。
徳光:
(笑)。

野村:
そしたら、途中でマネージャーが自転車で追っかけてきた。「みんな、すぐ帰れ。成城警察から電話がかかってきた」って。「変なやつらがいる。汚い格好でバットを持っている集団がいる。危険だ」って通報があったみたいです(笑)。
スズメをマネして守備が上達!?
太田監督が考案した独自の練習はほかにもある。なかでも面白いのは、“スズメポーズ”と呼ばれる守備練習だ。

野村:
僕が細くて腰高だったんで、監督が突然「おまえは腰が高いからスズメになれ」と。
徳光:
分からない。どういうことですか。
野村:
分からないでしょう。腰を低くする歩き方ですね。太田さんは、ボールを捕るときの姿勢をスズメに例えたんだと思うんですけど、「腰を低くして前かがみの姿勢で歩けばいいんだな、ボールを捕るように歩けばいいんだな」って思ってたら、「バカ野郎!スズメの羽は上にあるだろう」って言われて、後ろ手に手をあげるポーズになっちゃったわけですよ。そしたら「そうだ。羽を動かせ」って言うわけです、言われた通り、羽に見立てた手を動かしてたら、「スズメは何て鳴くんだ?」って聞くから、「チュンです」って言って…。「チュン、チュン」って言いながらグラウンドをずっと歩かされた。膝から腰からパンパンになるくらい。

徳光:
すいません(笑)。その練習に効果はあったんですか。
野村:
ありましたよ(笑)。守備が上手になりました。
徳光:
そのお陰でですか。つまり、その練習は思いつきではなくて、ちゃんと太田さんの頭の中では理屈があったわけですね。
野村:
なんか発想があるんだと思います。ユニークさもありましたから楽しかったですね。きつい練習も楽しかったです。だから今、自分の中でも振り返ると、大学1年生から4年生までが一番伸びたんじゃないかなと思いますね。
野村氏は3年生の春に、シーズン18盗塁という東都リーグ新記録を達成し、駒澤大学のリーグ優勝に貢献する。4年生の春には主将として駒澤大学を完全優勝に導き満票でMVPを獲得。さらに、リーグ記録を更新する通算52盗塁をマークした。通算成績は89試合に出場して325打数103安打、打率3割1分7厘、10本塁打、48打点。ベストナインに4回輝く大活躍だった。
【中編に続く】
(BSフジ「プロ野球レジェン堂」 25/6/3より)
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