いま半沢直樹の新シリーズを上回るスピードで売れている、自伝エッセイ『家族だから愛したんじゃ無くて、愛したのが家族だった』。

著者の岸田奈美さんの家族は、お母さんが車いすユーザー、弟さんは知的障がいがあり、お父さんは岸田さんが中学生の頃に若くして亡くなった。

岸田家の日々を綴ったこの本が、なぜ多くの共感を得ているのか?岸田さんが作家になる前から仕事仲間だった筆者が、本にはまだ書いていない笑いと涙のエピソードを聞いた。

【前編】「どん底まで落ちたら世界規模で輝いた」ベストセラー作家岸田奈美さんに聞く"変化のある生き方"

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岸田奈美(きしだ・なみ)1991年生まれ。兵庫県神戸市出身、関西学院大学卒業。「バリアをバリューにする」株式会社ミライロで広報部長をつとめたのち、作家として独立。

この本めちゃ売りまくって家族を呼びたいな

――次はご家族の話を聞きます。お母さんは元気ですか?車いすユーザーは、コロナ禍ではなかなか外に出られなかったのかなと思っていて。

岸田さん:
元気です。確かにリスクは高いと言っていましたけど、いま神戸ですけど東京にも来ていました。弟とおばあちゃんと3人で住んでいます。

――岸田さんは東京で別々に住んでいるんですね。

岸田さん:
いま私が完全に出稼ぎに来ている状態ですけど、私がやっぱり人と出会って面白いことが起こってそれを書きたいと。やっぱり神戸のド田舎だと誰とも会わないんです。田舎の中に突如できたニュータウンなんですが、30年前に開発されたので、もはやニューとも言えないくらいで。だからこの本めちゃ売りまくって、こちらに呼びたいなと思っていて。

左から岸田奈美さん、お母さん、弟の良太さん(写真:幡野広志/Hiroshi Hatano)
左から岸田奈美さん、お母さん、弟の良太さん(写真:幡野広志/Hiroshi Hatano)

父娘が母に「死んでもいい」「育てなくていい」

――実はお母さんも以前に出版していて、その本のタイトルが『ママ、死にたいなら死んでもいいよ: 娘のひと言から私の新しい人生が始まった』ですね。この言葉を言ったのは岸田さんですよね。

岸田さん:
私、お母さんに「死んでもいいよ」って言ったんですね。「歩けなくなってこんなのなら死んだほうがよかった」と絶望しているお母さんに対して「死んでもいいよ」と。そうしたらお母さんは「死んでもいいよと言われたら急に生きたくなってきた」といって、岸田家は絶望を免れたっていう話です。でも本にする作業の中で、お父さんも実はお母さんに同じことを言っていたというのが分かって。

――お父さんがお母さんに同じことを?確かお父さんはお母さんが倒れる数年前に亡くなっていますよね?

岸田さん:
お母さんが知的障害のある弟を生んだとき、ダウン症の子どもだから病院で誰からもおめでとうと言われなかったんです。ダウン症はその病院で初めて生まれたんです。お母さんは「育て方がわからない、どうしよう。この子を抱えて死のうか」と思うくらい落ち込んでいて、ぽろっと「育てていく自信がない」と言ったら、お父さんが「育てなくていい」と言ったそうです。

――お父さんがお母さんに「育てなくていい」と?

岸田さん:
「俺はママが一番大事だ。ママが笑っていないと意味がない。だからそんなにママが辛いなら良太(弟)のことは育てなくていい。施設に預けよう」と言ったんですって。お父さんは子どもがめちゃめちゃ好きだから、絶対そんなこと言いたくなかったと思うんですけど。

お母さんは、「あ、こんな時でも私のことを最優先に考えてくれる。母として責任を持てとか言わない人がこんな近くにいるなら育てたくなってきた。この子を守るのは私しかいないし、私を守ってくれるのはこの人がいる」と思って弟を育て始めたそうです。

お父さんがお母さんに「育てなくていい」と言ったそうです
お父さんがお母さんに「育てなくていい」と言ったそうです

実は面倒くさかったから言った「死んでもいい」

――お母さんに娘は「死んでもいい」、父は「育てなくていい」。遺伝子ですかね…

岸田さん:
本当につらい人に頑張れとか励ましの言葉って届かないので、一緒に泣くことしかできないんですよね。ここから先は本にも書いていないし、お母さんにも言っていないことなんですけど、実は私、面倒くさかったんですよ。「また死にたい、言うとるわ。もう嫌や、もうやめたいやめたい、もう死んでもいいよ」と思って、それで「死んでもいいよ」って言ったんですよね、本当は。

――そんな「面倒くさい」くらいのテンションだったんですか?本と違いますね。

岸田さん:
私はそんなテンションだったんですよ。物事って多分、両面あるんですよ。「死んでもいいよ」と本気で言ったのは本当だし、一方でちょっと面倒くさいなと思ったのも本当です。多分お父さんも「面倒くさいな」と思ったと思うんですよ。お母さんがうだうだと言うから。お母さんは明るいんですけど心配性なんですよ。ザ・日本人みたいな。性格診断したら強みとか弱みとかも私と正反対だったので。なのでそのお母さんに対して、「もうええわ」みたいな。

――そんなにこやかな感じだったの?2人一緒にどん底みたいな感じじゃなくて?

岸田さん:
そう。だって2人してパスタ食べていましたよその時。ぺろぺろと。でも人に語る時ってパスタ食べてたとか、面倒くさくて言ったと話しても、ぴんと来ないんですよ。そういう時は人が聞いていて面白い、納得しやすい方の事実を無意識に選んで書いているんです。

これで凄く嬉しいのは、これから何度でも記憶って編集できると思っていて、もし私が誰かと結婚して子どもができたら、お母さんの同じことを書いていてもちょっと捉え方は変わると思うんですよ。

お母さんに「死んでもいいよ」と本気で言ったのは本当だし
お母さんに「死んでもいいよ」と本気で言ったのは本当だし

「奈美ちゃんは大丈夫」の意味を一生考え続ける

――お父さんのことを聞いてもいいですか?1年ほど前、岸田さんが「まぶたを整形しようと思う」と言って、その後しばらくしたら「やっぱりやめました。ここが一番お父さんに似ているから」と言ってきたことがあって、すごくお父さんを愛しているんだなとその時に感じて。

岸田さん:
言いましたっけ?言った気もする。目がめちゃめちゃ似ているのと性格も似ているんですよ。どっちかというとお父さんに似ているのは、ずっと昔から嫌だったんです。お父さんを好きになったのは、自分に自信が持てたのと同じタイミングですね。

――本の中にもありましたが、岸田さんが中学時代にお父さんは心筋梗塞で倒れて、最後の言葉が「奈美ちゃんは大丈夫」だったと。

岸田さん:
死ぬ直前の遺言みたいのは、「奈美ちゃんは俺の娘だから大丈夫」と言っていて。私、その意味がわからなくてずっと苦しんでいたんですよ。「大丈夫って何が大丈夫なんだ。あんたに似たせいで会社でも辛い思いしているんだ」と。

ですけど最近は、「あ、こういう文章を書けるから私は大丈夫なんだ」とか「こうやって弟やお母さんを好きでいるから大丈夫なんだ」と多分、お父さんが思ったんだろうなと。その意味を一生考え続けるというか、いい風に取り続けることだと思います。 

こういう文章書けるから私は大丈夫なんだ
こういう文章書けるから私は大丈夫なんだ

いい文章はいい場所に連れて行ってくれる

――エッセイを書き始めてから、身の回りのことは変わりましたか?

岸田さん:
私、受信が多いというか、見て何かを感じ取ることが日課になっていて、毎日メモを取るんですけど1日1000文字は書いています。

「いい文章はいい場所に連れて行ってくれる」というのを凄く感じていて、本当に素直に誠実に書いた文章って誰かに引き合わせてくれるなと。それが糸井重里さんだったり、前澤友作さんだったりとか、写真家の幡野広志さんとか。

――本、もう重版決まったみたいですごいですね。

岸田さん:
ありがとうございます。本のノンブル(ページの数字)なんですけど、弟はダウン症だから字を書けなかったんですけど、見よう見まねで数字を模写したんです。ノンブルを見たいから本を買ってくれるという人もいるんです。

字が書けなかった弟の良太さん。見よう見まねでノンブルを書いた
字が書けなかった弟の良太さん。見よう見まねでノンブルを書いた

――今日は楽しかったです。ありがとうございました。またぜひ!

インタビューを終えて

数年前に初めて会った岸田さんは、手品のように次から次へと企画が出てくるスーパー広報だった。そのうち仕事以外の話もするようになると、岸田さんが語り始めたのは、早くにお父さんを亡くし、お母さんが倒れて車いす生活で、弟さんは知的障がいがあると。「そんな人生あるのか」とたじろぐ筆者に、岸田さんは愛に溢れた関西弁でさらに家族の物語を語り続けたのだった。

休職した際には心配もしていたが、これまでいろいろなところで聞いたエピソードをnoteに書き出すや大ブレークし、岸田さんはあっという間に人気作家の仲間入りとなった。

1度、岸田さんに「令和のさくらももこになる」と言ったことがある。久々の大型新人作家、2作目がいまから待ち遠しい。

岸田さんが持っているのは筆者の著書。岸田さんにあやかりたいと。
岸田さんが持っているのは筆者の著書。岸田さんにあやかりたいと。

【執筆:フジテレビ 解説委員 鈴木款】

鈴木款
鈴木款

政治経済を中心に教育問題などを担当。「現場第一」を信条に、取材に赴き、地上波で伝えきれない解説報道を目指します。著書「日本のパラリンピックを創った男 中村裕」「小泉進次郎 日本の未来をつくる言葉」、「日経電子版の読みかた」、編著「2020教育改革のキモ」。趣味はマラソン、ウインドサーフィン。2017年サハラ砂漠マラソン(全長250キロ)走破。2020年早稲田大学院スポーツ科学研究科卒業。
フジテレビ報道局解説委員。1961年北海道生まれ、早稲田大学卒業後、農林中央金庫に入庫しニューヨーク支店などを経て1992年フジテレビ入社。営業局、政治部、ニューヨーク支局長、経済部長を経て現職。iU情報経営イノベーション専門職大学客員教授。映画倫理機構(映倫)年少者映画審議会委員。はこだて観光大使。映画配給会社アドバイザー。