「ミスタープロ野球」こと長嶋茂雄さんが、2025年6月3日朝、肺炎のため89歳で亡くなった。生前、たびたび鹿児島を訪れファンの熱い声援を浴びた長嶋さん。鹿児島の関係者からも国民的スーパースターの死を惜しむ声が相次いだ。

鹿児島で打席に立つ姿も 衰えなかったその人気

1999年11月。鹿児島市の県立鴨池球場(現・平和リース球場)の打席に、背番号33をつけた長嶋さんが立った。マウンドには当時、神村学園高等部・女子硬式野球部のエースとして全国に知られた小林千紘投手が。セ・リーグ東西対抗試合の始球式である。思わぬ“大物打者”の登場にスタンドから歓声が上がった。

打席に立つ長嶋茂雄さん=1999年11月、県立鴨池球場(現・平和リース球場)
打席に立つ長嶋茂雄さん=1999年11月、県立鴨池球場(現・平和リース球場)
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巨人の監督を勇退した後も長嶋さんは、千葉ロッテマリーンズの鹿児島キャンプで選手を直接指導。ミスターを一目見ようという多くのファンに囲まれ変わらぬ人気ぶりをみせていた。

巨人監督勇退後も精力的に活動した長嶋さん
巨人監督勇退後も精力的に活動した長嶋さん
 

背番号を店名に 店内に今も若きミスターの姿

JR鹿児島中央駅近くに店を構える「カレーショップ90番」。店主の岩切秀史さん(77)は長嶋さんの大ファン。もちろん店名は、長嶋さんが初めて巨人の監督となった時の背番号にちなんでいる。巨人が優勝すると割引セールも行うなど長嶋愛、ジャイアンツ愛にあふれている。

「90番」は長嶋さんが初めて巨人の監督となった時の背番号だ
「90番」は長嶋さんが初めて巨人の監督となった時の背番号だ

訃報を聞いて「本当にびっくりした。今でも信じられない」と驚きを隠さなかった岩切さん。長嶋さんは「華があるしオーラがあるしみんなを幸せにする」存在だったと語る。

店内に飾られている長嶋さんの写真は、48年前のオープンに合わせ東京の写真好きの知人に撮影を頼んだもの。当時の本拠地、後楽園球場に行ってもらいノックするところを撮ってもらったという。胸の「GIANTS」の文字の下に背番号「90」がはっきり見える。この番号が写るように撮ってほしいとリクエストしたそうで、これ1枚しかない貴重なものだ。

大切に飾られている長嶋さんの写真

1974年の現役引退セレモニーで「わが巨人軍は永久に不滅です!」とあいさつした長嶋さん。岩切さんは「我々の心の中では『永遠に不滅』なんです」と、その死を悼んだ。

高校野球界のレジェンドも憧れたミスター

1967年から35年にわたり鹿児島実業高校硬式野球部の監督を務めた久保克之さん(87)。長嶋さんとの縁が生まれたのは1974年。その年の夏、チームは鹿児島県勢初の夏の甲子園ベスト4入りを果たした。準々決勝で神奈川・東海大相模を延長15回のすえ破った試合は今も語り継がれる熱戦だ。同じ年に現役を引退した長嶋さんはそのまま巨人の監督に就任。その長嶋監督がドラフト1位で指名したのが、鹿実のエースとして夏の甲子園をほぼ1人で投げ抜いた定岡正二投手だった。

鹿児島実業高校硬式野球部 久保克之名誉監督(87)。
鹿児島実業高校硬式野球部 久保克之名誉監督(87)。

巨人の宮崎キャンプで初めて長嶋さんと対面したという久保さん。「どんな下っ端の人でも明るく受け入れてくれる人。気さくに話してくれる人だった。私はかしこまってお伺いしたんですが、長嶋さんの表情を見たり言葉を聞いたりしたらリラックスできて、気軽に話ができました」と振り返る。

久保さんにとっても、長嶋さんは憧れの存在だった。「守備もうまい、走塁もある、バッティングもいい、ホームランも出る、打率も良い、そんな選手いませんよ、スーパースターは。ファンじゃない人はいないのでは?」背番号「3」と書かれた長嶋さんのサイン色紙が飾られた自宅で、久保さんは笑顔をみせた。

高校野球界のレジェンドもミスターに憧れた
高校野球界のレジェンドもミスターに憧れた

鹿実からは多くの選手がプロ入りしているが、久保さんの教え子で、長嶋監督の巨人に新人として入団したのは、定岡投手のほか、栄村忠広外野手、内薗直樹投手。それだけに「そりゃ深いですよ、感謝の念は。ジャイアンツに入れるなんて、ありがたいの一言につきます」と、長嶋さんへの思いを語った。

長嶋さんと直接言葉を交わす機会は少なかったというが久保さんは「とにかく人を引きつける魅力のある人ではないか、そんな感じがします。天性のものでしょうね」と印象を語った。そして「もう野球の神様ですよ。日本の野球をここまで本当によく引っ張ってくれた人だと思いますね。お亡くなりになって寂しい。失いたくない人です」と、その死を悼んだ。

「幻のホームラン」は鹿児島出身の投手から打っていた

ところで長嶋さんといえば入団1年目の1958年9月19日、後楽園球場の広島戦でホームランを打ちながら1塁ベースを踏み忘れ、アウトとなったエピソードが有名だ。

実はこの「幻のホームラン」、鹿児島出身の鵜狩道夫投手から打ったものだった。引退後、日置市伊集院町でスポーツ用品店を経営していた鵜狩さん、2018年に死去したが、生前、このエピソードについて次のように語っていた。

鵜狩道夫さん(2002年取材):(長嶋さんは)スリーベースにしようと思って欲張ったんじゃないですかね。それで、ファースト(ベースを踏まずに)またがったのでは? ジャイアンツに(私が)初めて勝ったときが、この「1塁踏み忘れ」なんですね(笑)

生前の鵜狩道夫さん=写真は1999年取材時
生前の鵜狩道夫さん=写真は1999年取材時

当時プロ3年目だった鵜狩さんにとって忘れられないこの試合。名刺には、この試合の日付と「幻のホームラン」の文字が書かれていた。ともに1936年生まれの2人。今ごろ久々に再会し、当時の思い出を語り合っているかもしれない。

鹿児島の野球ファン、関係者も魅了し続けた長嶋茂雄さん。その功績は、まさに「永久に不滅」である。

(鹿児島テレビ)

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