学童疎開船「対馬丸」の悲劇

天皇皇后両陛下と長女の愛子さまは、6月4日から、沖縄県を訪問されます。

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沖縄海洋博50周年と戦後80年という節目でのご訪問で、5日には対馬丸記念館をお訪ねになる予定です。

対馬丸とは、太平洋戦争で沖縄に対しての爆撃などの攻撃が激化した1944年8月、非戦闘員の児童や民間人を本土に疎開させるなどのため約1800人を乗せ沖縄から長崎へと向かった老朽貨物船です。

学童疎開航行中にアメリカ軍による魚雷攻撃で沈没した「対馬丸」
学童疎開航行中にアメリカ軍による魚雷攻撃で沈没した「対馬丸」

疎開について、沖縄の人たちは消極的でしたが、結局、軍の要請を受けた政府が疎開の命令を出し、更に学校の校長や自治体の役人などが疎開を勧誘することにより児童や民間人1661人が乗船したとされています。

船は護衛艦など5隻の船団で出港しましたが、翌日8月22日夜、トカラ列島悪石島の北西約10キロの地点で、アメリカ軍の潜水艦の攻撃を受け対馬丸は沈没。

撃沈から80年…奄美大島で行われた慰霊祭(2024年)
撃沈から80年…奄美大島で行われた慰霊祭(2024年)

氏名の判別がついている人数では、疎開のため乗船した子ども784人を含む、約1500人が犠牲になりました。

助けられた児童は59人と言われていますが、実際の人数は不明です。

対馬丸記念館を訪問された上皇ご夫妻(2014年)
対馬丸記念館を訪問された上皇ご夫妻(2014年)

というのも、軍の情報統制により、関係者に箝口令が敷かれ資料も残されず、また戦後はアメリカの統治下にあったため詳しく調べることもなかったため、関係者の記憶を頼りに状況がまとめられたためでした。

「みっちゃん」「えっちゃん」のランドセル

当時天皇皇后両陛下、今の上皇ご夫妻は、対馬丸が撃沈されて70年に当たる2014年、対馬丸の犠牲者の慰霊のため沖縄県を訪問されました。

小桜の塔と上皇ご夫妻のご供花(沖縄・旭ケ丘公園)
小桜の塔と上皇ご夫妻のご供花(沖縄・旭ケ丘公園)

ご訪問2日目の6月27日、まず訪れたのが対馬丸で犠牲になった子どもたち、そして戦争の犠牲になった子どもたちを弔い、恒久的な平和を願い建立された「小桜の塔」でした。

小桜の塔に拝礼される上皇ご夫妻(沖縄・旭ケ丘公園 2014年)
小桜の塔に拝礼される上皇ご夫妻(沖縄・旭ケ丘公園 2014年)

ご夫妻は碑に供花し、深く拝礼されました。

続いて訪れたのが、対馬丸記念館です。

対馬丸記念館(沖縄・那覇市)
対馬丸記念館(沖縄・那覇市)

そこで最初にご覧になったのが、「みっちゃん」「えっちゃん」のランドセル。

「みっちゃん」「えっちゃん」のランドセル (対馬丸記念館)
「みっちゃん」「えっちゃん」のランドセル (対馬丸記念館)

2人の姉妹は、まるで旅行に行くかのように対馬丸に乗船したと言うことでしたが、母親の元に戻ってきたのは、別の船で運ばれていた、姉妹のランドセルだけでした。

外間美津子さん(みっちゃん 当時10歳) 外間悦子さん(えっちゃん 当時8歳)
外間美津子さん(みっちゃん 当時10歳) 外間悦子さん(えっちゃん 当時8歳)

また、上皇ご夫妻は館内の壁一面に飾られた子どもたちの遺影をじっとご覧になっていました。

「対馬丸」で犠牲になった子どもたちの遺影…上皇ご夫妻とほぼ同世代
「対馬丸」で犠牲になった子どもたちの遺影…上皇ご夫妻とほぼ同世代

そこにあったのは、ご夫妻とほぼ同じ世代の子どもたちの顔だったのです。

「護衛艦は救助しなかったのですか」

ご覧になりながら、上皇さまは「(対馬丸と一緒に航行していた)護衛艦は(遭難者を)救助しなかったのですか」「護衛艦は助けない決まりになっていたのですか」などと、なぜ近くにいた護衛艦が人命を救助しなかったのか、しきりに質問をされていました。

遺影をご覧になる上皇ご夫妻(対馬丸記念館 2014 年)
遺影をご覧になる上皇ご夫妻(対馬丸記念館 2014 年)

説明していた記念館の高良政勝理事長は「他の船について行ってしまった、救助に来たのは近くの島から来た漁船だった」などと答えていました。

高良さんも対馬丸に乗船し、救助された方でした。

高良政勝理事長の案内で館内をご覧になる上皇ご夫妻(対馬丸記念館 2014年)
高良政勝理事長の案内で館内をご覧になる上皇ご夫妻(対馬丸記念館 2014年)

上皇后さまは「学童疎開船だったことをアメリカは知っていたのかしら」などと話されていました。

そして上皇さまは「本当に痛ましいことですね」とおっしゃっていました。

生き残った人が抱え続ける心の傷

実はこうしたご説明の中で、高良理事長は「犠牲者は亡くなった方だけではない」ことを話したということでした。

そして、糸数裕子(みつこ)さんの名前を挙げたということでした。

対馬丸に乗船していた糸数裕子さん
対馬丸に乗船していた糸数裕子さん

展示の中で、「なぜあんたは生き残って、うちの子は死んだのか、言われるはずのない声におびえて三十三回忌が済むまで 那覇の町(市場)は怖くて歩けませんでした」と、糸数さんの気持ちを示す文章があったのです。

糸数さんは子どもたちを引率するため乗船した教師でした。

引率教師として対馬丸に乗船していた糸数裕子さん(当時19歳)
引率教師として対馬丸に乗船していた糸数裕子さん(当時19歳)

盲腸の子どもを看病するため上層階にいるところで攻撃を受けました。

2日間漂流し、漁船に救助されましたが、引率した子どもたちは全員返ってこなかったということです。

「対馬丸」沈没後いかだで漂流する様子を描いた絵画
「対馬丸」沈没後いかだで漂流する様子を描いた絵画

高良理事長は、上皇ご夫妻が来館することが決まったあと、糸数さんにご夫妻とお会いしないか誘ったそうですが、「両陛下の前に出る資格がない。会わせる顔がない」との返事が来たということでした。

ただ、糸数さんはご夫妻の来県を知った3月から、慰霊のためレースを編み始めたということす。

そして「手を合わせる気持ちで編んだ」という3枚のレースが対馬丸記念館に届きます。

そのレースの1枚は、小桜の塔で上皇ご夫妻が供花される台の上に敷かれました。

献花台に敷かれた糸数裕子さんが編んだレース(小桜の塔)
献花台に敷かれた糸数裕子さんが編んだレース(小桜の塔)

他の2枚のレースは、上皇ご夫妻が休憩のため入られた2階の会議室におかれた、ご夫妻の椅子の両脇の台に敷かれたのです。

このレースの話を聞いた上皇后さまは、「レース!」と反応されていたと言うことです。

糸数裕子さんのレースが置かれた上皇ご夫妻の休憩室
糸数裕子さんのレースが置かれた上皇ご夫妻の休憩室

後日、上皇ご夫妻の側近から、レースをいただけないかと問い合わせがあり、3枚のレースのうち1枚は、ご夫妻の元に届けられたということです。

その糸数裕子さんは、2022年9月29日、97歳の生涯を閉じました。

2022年に亡くなった糸数裕子さん
2022年に亡くなった糸数裕子さん

天皇皇后両陛下と長女の愛子さまは6月5日、小桜の塔と対馬丸記念館を訪問される予定です。糸数さんのレースは、館内一階に展示されています。

ここで目にされるのは、亡くなった方の想い出と、そして未だに心に傷をもって語り続ける対馬丸の犠牲者の姿でしょう。

戦争の犠牲者は、亡くなった人だけではありません。生き延びた人たちも苦悩を長く長く背負っている犠牲者なのです。

糸数裕子さんのレース
糸数裕子さんのレース

そのことを、糸数さんのレースは教えてくれています。

戦争により、どれだけたくさんの犠牲者が出たか私たちは記憶に残し、平和の大切さを心に深く刻み込まなければならないのです。

(執筆:フジテレビ皇室担当上席解説委員 橋本寿史)

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橋本寿史
橋本寿史

フジテレビ報道局解説委員。
1983年にフジテレビに入社。最初に担当した番組は「3時のあなた」。
1999年に宮内庁担当となり、上皇ご夫妻(当時の天皇皇后両陛下)のオランダご訪問、
香淳皇后崩御、敬宮愛子さまご誕生などを取材。