プロ野球に偉大な足跡を残した選手たちの功績、伝説を德光和夫が引き出す『プロ野球レジェン堂』。記憶に残る名勝負や知られざる裏話、ライバル関係など、「最強のスポーツコンテンツ」だった“あの頃のプロ野球”のレジェンドたちに迫る!

巨人・西武で19年にわたり中継ぎ・抑えとして活躍した鹿取義隆氏。サイドスローから投げ込むキレの良いストレートと多彩な変化球を武器に755試合に登板し91勝131セーブ。最優秀救援投手1回。毎年フル回転でチームを支え“鹿取大明神”と呼ばれたタフガイに徳光和夫が切り込んだ。

【前編からの続き】

10日間だけ一緒に練習…小林繁氏の身体能力

「空白の1日」を経て巨人に入団した江川氏だが、そのトレード相手は、前年も13勝をあげる活躍をしていた小林繁氏だった。小林氏がトレードを告げられたのはキャンプイン前日の1月31日。小林氏はキャンプ地・宮崎へ向かうため羽田空港にまで行っていた。

徳光:
江川さんと同期入団になるんですよね。

鹿取:
そうです。トレードで来るわけですから。

徳光:
ということは、お入りになったときは、まだ小林さんがいたわけですか。

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鹿取:
いました。1月の段階では多摩川練習で一緒でした。僕も入団が決まって練習に参加するじゃないですか。小林さんは脚力がすごかったですね。すごいジャンプ、バネがあるっていうか。

徳光:
やっぱりそうなんですか。

鹿取:
ケンケンでもすごく速いし、もう飛んでいく幅が違う。「こりゃプロだな、自分には、ちょっと無理だな」みたいな感じですね。

徳光:
あの、カクッ、カクッ、カクッっていう投げ方はマネできなかったでしょう。

鹿取:
カクッっていったときに踏ん張らなきゃいけないんで、相当、下半身を使いますよ。あれは誰にもできないですよ。マネしてもストライクが入んないです。
小林さんと一緒に行動したのは、その10日間くらいですね。それっきりでしたよ。「今度キャンプに行って改めて聞こう」と思ってたら、いなくなっちゃったわけですから。

徳光:
そういうことですよね。

鹿取:
あれは、ちょっとショックでした。

徳光:
でも、わずかな期間ですけど、小林さんと一緒になったことは、やっぱり大きかったですか。

鹿取:
大きいですね。

隠れて江川氏とランニング

江川氏は4月7日に巨人に正式に入団。2カ月の自粛期間を経て、6月に一軍に合流した。

鹿取:
大変でしたね。来ることは当然、分かってるわけですから、先輩たちから、「どういうやつだ?」って聞かれるんです。「普通です。報道とは全く違います」って言いましたけど、なんか「ふーん」って感じでした。

徳光:
甲子園での試合は大変だったでしょう。

鹿取:
大変ですよ。あのときはファンが普通に何か物を投げてきたりして、ひどかったですね。
試合前に一緒にランニングをしたんですけど、フェンスのすぐ横を走らないと、ファンから見えちゃうわけですよ。フェンス沿いに走ると見えないんですけど、少し内側に行くと見えちゃって物を投げられるんです。だから、ぎりぎりを走んなきゃいけない。

徳光:
見えないように(笑)。

鹿取:
ただ、あの頃はまだ甲子園にラッキーゾーンがあったんで、両翼を走るときはどうしても見えるんですよ。でも、そこはスタンドから少し離れてるんで、まだ良かったんです。ラッキーゾーンがないところは、フェンスのへりを走るしかない。その横を僕は走ってました。

徳光:
江川さんは年齢的には1つ上で同期入団ですよね。どういうふうに呼んでたんですか。

鹿取:
僕はずっと「江川さん」って呼んでました。僕の同学年で高卒や社会人から先に巨人入りしていた角(盈男)、西本(聖)、藤城(和明)、定岡(正二)は「スグルちゃん」って呼んでました。今でも「スグルちゃん」って呼んでます。

徳光:
そうなんですか。

鹿取:
僕はいまだに「江川さん」。

徳光:
へぇ、面白い。

鹿取:
これはもうしょうがないですよ。

1年目…王貞治氏に謝りすぎた!?

徳光:
鹿取さんは、張本さんとか王さんと一緒に現役でやっていらっしゃるんですよね。

鹿取:
やりました。王さんとは2年、張本さんとは1年です。

徳光:
若手だった鹿取さんがベテランの王さん、張本さんから得たものって何かあるんですかね。

鹿取:
1年目のときにフリーバッティングで、朝、メニューを見たら、「BP(バッティングピッチャー)、王」って書いてあって、「えっ、投げるんですか!」。当然、投げなきゃいけないんですけど、王さんが足を上げた瞬間にインコースが消えるんですね。バッティングキャッチャーはいるんですけど、足を上げた瞬間にゾーンが消えて、真ん中にボールを集めるような感じになりましたね。

徳光:
ほう。

鹿取:
それで、真ん中へ行ったボールがちょっとスライドしたんです。そしたら自打球ですよ。ふくらはぎに当たって、王さんが練習をやめたんです。僕はバッティング当番が終わったらすぐ「すみませんでした」って謝りに行ったんですね。王さんは「いやいや、大丈夫、大丈夫。いいボールが来てたよ」って言ってくれて。ふくらはぎは膨れ上がってました。あの大きなふくらはぎがもっと大きくなってました。

徳光:
へぇ。

鹿取:
今度は投内連携があったんですけど、ファーストにいるのは王さんと山本功児さん。「順番でいくと俺は王さんだ。また緊張するな」って。それで、ボールを投げてもらうときに「あ、すみません」って帽子を取ったんです。そしたら、「もう帽子を取らなくていい。チームメイトなんだから」って言ってくれたんですけど、それに対して「すみません」って、また帽子を取っちゃって。

徳光:
(笑)。

鹿取:
これはなかなか直らなかったですよ。

徳光:
そうですか(笑)。その都度、帽子を取ってたんだ。

風呂場で王氏&張本氏と遭遇

鹿取:
あと、1年目のときに、雨が降ってピッチャー陣の練習が早く終わったんで、僕は1人でお風呂に入ってたんです。そしたら、野手陣が帰ってきて、王さん、張本さん、シピンがお風呂に入ってきて遭遇しちゃったわけです。「ウワー」って。

徳光:
それは大変でしたね(笑)。

鹿取:
もうほんと大変です、僕は湯船に入ってたんですけど、「どうしよう。罰が当たった」と思いました。
そのまま出ようかなと思ったんですけど、大学時代のことを考えれば、背中を流せばいいと思って、「背中流します!」って言って、まず張さんの背中を流して、その次に王さんを流して。シピンを流そうとしたら、「俺は要らない」って言われて…。

徳光:
(笑)。

鹿取:
そのときにタオル越しに筋肉を触らせてもらったんですけど、やっぱり王さんのほうが締まってた。筋肉質だったですね。張さんも意外と筋肉質だった。「おぉ、すごいな」って思いました。

徳光:
たしか張本さんと同じ部屋になったことがありましたよね。

鹿取:
遠征で大阪に行ったとき、竹園旅館で一緒になりました。夏だったんですけど部屋に入ったら、クーラーがガンガンに効いてるんですよ。
「寒いか?」って聞かれて、「いや、全然寒くありません」。布団を2枚かけてたんで、「おまえ寒いんだろ?」って、また聞かれても、「いえいえ、大丈夫です!」。

徳光:
(笑)。

鹿取:
その夜中に張さんが急にバットを持ってスイングを始めたんです。だから座って見てたんです。「寝てていいぞ」って言われても、寝れるわけないですよね。目の前でスイングを見ました。初めて見たんですけど、スイングの「ブウン」という音がすごかったです。「あぁ、プロの人ってこうなんだ」って思いましたね。

柴田勲氏に救われた初登板

鹿取氏はプロ1年目の1979年、開幕から一軍入りを果たすと、38試合に登板して3勝2敗2セーブ、防御率3.36の成績を残した。

徳光:
開幕から一軍ベンチ入り、すごいじゃないですか。

鹿取:
ちょうどサイドハンドのピッチャーが抜けたんですよね。小林さん。それでサイドハンドは、僕しかいなかったってことです。

徳光:
でも、1年目に38試合も投げてるわけですよ。「プロで通用しそうだな」って思った瞬間みたいなものはあったんですかね。

鹿取:
いや、まだその頃はないですね。この1年目、円形脱毛症になったんですよ。投げるボールを打たれたりとかして。頭頂部の右側に親指の爪くらいのができましたよ。髪の毛で見えないからいいんですけど。やっぱりいろんなことで相当悩んでましたね、変化球に関してもコントロールに関しても。

徳光:
たしか開幕戦でも投げましたよね。

鹿取:
投げてます。

1979年4月7日の中日との開幕戦で、ルーキーの鹿取氏はピンチを背負った新浦壽夫氏に代わって、8回2アウトからワンポイントで登板した。

鹿取:
高木守道さんでセンターライナーでした。高木守道さんっていったらすごい人。「テレビで見た人だ」って感じですよね。

徳光:
バッターボックスに立ったときにそう思った。

鹿取:
すっごく打ちそうな構えなんですよ。「どこに投げればいいんだ」みたいな。
柴田さんがセンターライナーをスライディングキャッチした。周りが「よく滑ったな。柴田はあんまりスライディングキャッチなんかしないんだよ」って。「ええっ」。それでピンチをしのげたわけです。それが僕のスタートでした。

徳光:
柴田さんは、ルーキーのためにスライディングしてくださったってことですか。

鹿取:
いや、開幕戦でまだ元気が良かったですからね。ルーキーのためじゃないです。試合展開を見たら行くしかなかったんじゃないかと思います。

徳光:
(笑)。

“地獄の伊東キャンプ” 湯船で寝落ち

徳光:
その1年目のオフがいわゆる“地獄の伊東キャンプ”。

鹿取:
はい。

徳光:
これは明治大学以上でしたか。

鹿取:
以上でした。内容が濃いんです。とんでもない量を走ってたんで。

“地獄の伊東キャンプ”とは1979年のシーズン終了後に、長嶋監督が若手選手を集めて静岡・伊東市で行ったキャンプのことだ。体力の限界を超える猛練習で、参加メンバーはのちにジャイアンツの主力選手となっていった。

鹿取:
馬場の平っていって1周800メートル、モトクロスで走るコースがあるんですけど、そこを10周ランニングとか。
腹筋背筋は最初200回とかだったんですけど、ひと言文句を言ったら倍々ゲームになっていく。最高で1000回くらいですかね。「腹筋、1000」って言われて、なんかいったら倍になるんで「はい」って言うしかない(笑)。

徳光:
もう疲労度が半端じゃなかった。

鹿取:
温泉だったので大きな浴槽があるんですけど、浸かってると眠ってて、ブクブクって沈んじゃってゴボゴボってなることはありましたね。みんなやってました。

徳光:
鹿取さんだけじゃなくて、何人か溺死しそうに。

鹿取:
危なかったです。それくらいお風呂が気持ちいいんですよね。

徳光:
昔からよく、「投手は走れ、走れ」って言われましたけど、やっぱり投手にとって走るっていうことは大切なんですか。

鹿取:
やっぱり体の芯が強くなる。それはやったほうがいいと思いますね。今は練習方法が変わって機械でランニングしてますけど、基本は何も変わってないと思いますよ。昔は自分で走るしかなかった。負荷をかけるところは走って…みたいな感じですから、ほとんど変わってないですよ。

徳光:
そうですか。

鹿取:
それから、たまにピッチャーもバッティング練習で投げるんですよ。あるとき、僕が中畑さんに投げてて、自打球になったんです。そのとき、いつもよりも曲がったんですよね。自分の筋力がアップしたことによってボールも変わってきた。それはストレートに関しても同じです。僕は「中畑さん、すいません」って言いながら、「これだ」と思いましたね。そこでシュート、シンカーの感覚をつかんだっていうのはありました。

徳光:
そして、伊東キャンプの翌年に答えを出すじゃないですか。51試合に登板して4勝3敗3セーブ、防御率が1.78ですから、これはやっぱり大変なもんですよ。

鹿取:
防御率がキャリアハイになるのかな。

徳光:
鹿取さんは、すぐに肩ができあがることで有名でした。

鹿取:
それには、いろんな事情があるんです。
ベンチに座ってて、先発ピッチャーが打たれだしたら長嶋監督に「行け」って言われて、「えっ、僕ですか」って。ベンチにいるわけですから、まだ肩を作ってない。でも、「行きます!」。
当時はマウンドで8球投げれたんですよ(現在は5球)。試合前の練習でキャッチボールしてますから、マウンドに上がって8球あれば、やれるんじゃないかなという気持ちもあったんですね。ルーキーとか若い頃ですから、まだ自分のポジションがないわけですよ。こういう展開で抑えたら、「鹿取は使えるぞ」と思われるかも分かんない。肩が早くできれば、使ってくれるかも分かんないっていう思いがあったんです。

【後編に続く】

(BSフジ「プロ野球レジェン堂」 25/4/8より)

「プロ野球レジェン堂」
BSフジ 毎週火曜日午後10時から放送
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