太平洋戦争中から戦後にかけて、ハンセン病の患者たちに開発途中の薬剤『虹波(こうは)』を投与する臨床試験が行われていました。合志市にある国立療養所 菊池恵楓園の歴史資料館では、この『虹波』臨床試験に関する企画展が開催されています。

「墓場の生活から 世のあけぼのにめざめたる 希望の舟」

『虹波』の臨床試験に参加した患者の日記です。「病気が治るかもしれない」という強い期待が読み取れます。

菊池恵楓園の歴史資料館で開催中の企画展『戦争と医学 虹波臨床試験の深層』では、28件の資料が展示されています。

『虹波』とは、写真の感光剤などに使われる感光色素を主な成分とした薬剤です。

【菊池恵楓園 歴史資料館 原田 寿真 学芸員】
「『虹波は緑色の薬剤であった』といわれていまして、『アンプルに入れた粉末の状態で提供した』と書かれていますので、こちらが『虹波』とみなされます。実際に投与する際には『ブドウ糖液で溶かした上で静脈注射などの方法が取られていた』と書かれています」

当初は、体質の改善や結核の治療などを目的に研究されていましたが、旧陸軍が作戦への応用を目的に、当時の熊本医科大学に研究を委託。臨床試験は、太平洋戦争中の1942年から戦後の1947年まで少なくとも4回、行われました。

結核の治療に一部で効果があったことから『ハンセン病の治療にも使えるのでは』と期待され、当時の宮崎 松記 園長も研究に加わりました。

【原田 寿真 学芸員】
「こちらの虹波臨床試験が、当時の軍の意向であったり、国際的な風潮と結びついていたことが明らかになりまして、現在のロシアとウクライナの問題など国際的な世情が不安定になっていく中で、戦後80年の歴史、教訓を振り返るべきではないかということで、こちらの企画展が開催されています」

試験に参加した患者は、これまで判明しているだけで472人。6歳の子どももいました。このほか投与された可能性のある患者も370人いるとされています。

【原田 寿真 学芸員】
「臨床試験開始当初だと、『全入所者の熱烈な同意を得た、賛同を得た』と書かれていますので、薬に対しての期待感は非常に高かったと思います。入所者の日記の中にも『新しい研究を始めてくれて、うれしい』というような記載が見つかっていますので、やっぱり期待感は皆さん、高かったと思います」

【国立療養所 菊池恵楓園 境 恵祐 園長】
「治療法がない時代に『もしかしたら治るかもしれん』『結核には効いたらしいぞ』とか、そういう話があったとしたら〈治って、この病気から解放されたい〉という思いがあっても、全く不思議じゃないとは思います。体調が悪ければ、薬もやめたり、入院させたりもしているし、患者さんが『仕事するからやめたい』と言ったら、やめていたりするし、続けている人は1年以上、続けていたりもしているし、さまざまなパターンがあったんじゃないかと」

激しい副作用が出ても、投与が続けられたケースもあり、試験中に9人が死亡。しかし、その後も投与は繰り返されました。

元患者の男性はのちに「全身が痙攣(けいれん)を起こしたように」「モルモット扱い」「七転八倒」などとその様子を語っています。

【菊池恵楓園 入所者自治会 太田 明 副会長】
「もう人体のありとあらゆる場所に注入されています、子供も女性も。これは本当、人体実験に近い。もうモルモット扱いですよ。人間扱いとはとても思えない。精神的、あるいは肉体的な負荷を考えると、本当にもう悔しいというか、やるせないと思いますね」

【武見 厚労相(当時)】
「我が国におけるハンセン病の患者の皆さまに対する不当な差別が行われた過去の歴史の中の一つの重要な出来事として、私は大変重く受け止めました。しっかり検証を進めていただき、そして、それをサポートし、後世にその歴史の事実を残してまいりたいと考えます」

臨床試験中に撮影されたフィルムです。『虹波』の投与後、患者の男性に劇的な効果が表れたように見えますが、疑わしく思える場面もあります。

【原田 寿真 学芸員】
「ハンセン病の身体障害が内服薬とか内科的な薬剤によって、あそこまで回復するとはなかなか思えないので、効果をアピールすることによって、軍が主導した研究がうまく成果を出しているんだと(軍から)理解を得るためだったと思うんですが、医師の方々も〈人の命を救いたい〉とか崇高な志を持たれて臨まれてきたところもあったかと思います。しかしながら、戦争に向かう体制の中、総力戦体制の下では〈国に奉仕することこそが高い目標なんだ〉と。〈理想として掲げるものだ〉という、そのようなすり替えがどこかで起こってしまっているというふうに思われます」

この企画展は、菊池恵楓園歴史資料館で来年2月末までです。

テレビ熊本
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