静岡市葵区の水落町(みずおちちょう)。周辺に滝や川がない街中で“水が落ちる”とは? 地名の由来を探ると、江戸時代の治水事業の痕跡が見えた。
由来を知る人は少ない
静岡市葵区の中心部、駿府城公園の北東側に面している水落町。その由来について、地元の人々に聞いてみた。
「わからない」「全然知らない」と、多くの人が地名は知っていても、その由来までは知らない。
しかし、皆一様に「駿府城のお堀の水が関係しているのではないか」と感じているようだ。確かに、水落町は駿府城の外堀に面している。

しかし、それ以外に目立った川や池は見当らない。聞き込みを続けていると、興味深い情報をゲットした!
街行く人:
水が北街道方面まで本当は通っていたと聞いたことがあります
北街道は駿府城公園から清水区方面まで、静岡市を北東に走る主要道路だ。
現在の地図上では川や水路は確認できないが、これは重要な手がかりかもしれない。
お堀の水が昔は北街道につながっていたとは、どういう事なのだろうか。

幻の川があった?
ここで、以前調査したある情報を思い出した。
「駿府城から続く農業用の水路があった」と、地元の事情に詳しい慶応2年創業のそば店「安田屋本店」の安田裕さんが教えてくれたのだった。

また、安田屋本店の前には、横内川という川も流れていたそうだ。
安田屋がある場所は、北街道に沿って流れる横内川と、南に下る農業用水路の分岐点だったというのだ。

現在は道路の下に隠れて流れている横内川だが、これは「水落」と関係がありそうだ。
さらに調査を続行する。北街道を北東方面へ歩いて行くと、「北街道」「横内川跡」の文字が刻まれた石碑を発見した。

説明看板にはこう記されていた。
「横内川はおよそ400年前、家康公の命により駿府城築城に際して作られた運河でした。水落町を起点に北街道沿いに巴川に至る」
横内川は水落町が起点だったのだ。昔の横内川の写真も石碑にあった。遠くまで真っ直ぐ続く川の両側を道と建物が囲んでいる。

お堀から川へ水が流れ落ちる場所
地域のことは地元の方に聞くのが一番。そこで、昭和初期の1934年に水落町に開業した山田時計店を訪ねた。
水落町の由来について、何か知っていることはあるだろうか?
山田時計店・山田忠男さん:
「駿府城のお堀の水が落ちる」ということから来てるでしょうね
駿府城のお堀の水が 横内川へ流れ落ちる場所だから。山田さんによると、これが水落町の名前の由来と言われているそうだ。

名前の由来になっている“水が落ちる場所”は現在でも見ることができるそうだ。
山田時計店・山田忠男さん:
水門も残ってますね。今も多少そこから清水に向かって水は流れてますよ
現在も残る水門を見に行こう!
「水落」の痕跡が見られるという水落交番の裏に向かうと、確かにそこには水門があった。

北街道側に向かってお堀から水が流れ出ているのが確認できる。
地下水路となっているため奥の方までは見えないが、確実に水が流れているのがわかる。
これこそが、水落町という地名の由来となった場所だ。

運河として利用された横内川は、さらにそこから分岐して駿河区大谷地区の農業にも利用された大切な水だった。
その起点となったのが、駿府城から水が流れ落ちる町、水落町だったのだ。

水落町の名前の由来を探ることでわかった、水の歴史の物語。歴史を知ることで、いつも見ている街並みも、また少し違った顔を見せてくれた。
(テレビ静岡)