国松孝次警察庁長官銃撃事件から、3月30日で発生から30年となる。事件は未解決のまま2010年に時効となったが、この事件ではオウム真理教の信者だった警視庁の警察官が長官を撃ったと供述したことが公表されず、その後の捜査に大きな影響を与えた。
また教団による犯行とみていた警視庁公安部と、強盗などで服役していた男の関与を捜査した刑事部の捜査方針の不一致が表面化した。
さらに時効成立の記者会見で、警視庁が教団の組織的テロだったと公表したことで、損害賠償が命ぜられるなど警察組織を揺るがす数多くの問題が起きた。関係者の証言から改めて事件を振り返る。

オウム真理教による地下鉄サリン事件が1995年3月20日に発生し、乗客や地下鉄職員ら14人が死亡、約6300人が負傷する化学兵器による未曾有のテロとなった。警察は2日後の3月22日、山梨県上九一色村(当時)の教団施設などの一斉捜索に乗り出した。
一方、教団幹部は記者会見やテレビ出演で、一連の事件への関与を強く否定し続けた。警察と教団による攻防が激しく繰り広げられているさなか、治安を揺るがす事件が発生する。
警備の隙を突かれて銃弾3発をうける
3月30日午前8時半ごろ、警察庁の国松孝次長官は、東京・荒川区の自宅マンションから警察庁に登庁するため、エレベーターでマンション1階に降りた。

小雨が降る中、この日はいつも使っている正面のエントランスではなく、横の通用口から秘書官とともに外に出た。秘書官が後ろについて、迎えの車に向かって数歩進んだところで、「ドーン」という音が鳴り響いた。秘書官はマンションの工事現場からの音だと思い、一瞬後ろを振り向いた。そして前に視線を戻すと長官が前方に倒れかけていて、続けて2発目の銃声が響いた。

秘書官はとっさに前にある植え込みの陰に隠れるために、倒れた長官のスーツの首元とズボンをつかんで移動したがそこに3発目が発射された。数秒の出来事だった。
そして植え込みに隠れたところでさらに4発目の発射音がした。右足に痛みを感じた秘書官はマンションの上から狙われていると思い、長官を抱えてさらに植え込みの奥に移動した。
銃弾は4発発射され、1発目は長官の背中をとらえ、2発目と3発目も倒れ込んだ長官の太ももなどにあたっていた。4発目は植え込みの縁石にあたっていて、その破片が秘書官の足にあたったとみられる。

その後の捜査で、銃撃犯は約20メートル離れた隣接する棟の植え込みの陰から、38口径のコルトパイソンと殺傷能力の高いホローポインド弾を使って、長官の後ろから銃撃したとみられている。
緊迫している中、この距離で倒れて動いているターゲットに命中させることは相当な射撃技術があるという見方の一方で、銃器の扱いに慣れていればできるという意見もあり、見解は分かれている。

通報を受けて到着した救急隊の応急処置を受けた国松長官は、東京・文京区の日本医科大病院に搬送された。腹部の損傷が激しく、大量の輸血を必要としたが、6時間に及ぶ緊急手術で一命を取り留めた。
捜査は警視庁公安部に決定
警察庁にも、ただちに長官が撃たれたという一報が伝えられた。事件当時、警備警察トップの警察庁警備局長だった杉田和博元内閣官房副長官(83)は、長官が銃撃されたことを聞き、「驚愕しました」と当時の心境を語った。

杉田和博元内閣官房副長官:
自宅の警備はガチガチにしっかり行っていると思っていました。長官に申し訳ないと思いました。本来ならもっと警戒の輪を狭めるべきでした。
長官の警備はマンションの住民への配慮もあり、周りを警戒員で固めるいわゆる見せる警備ではなかったが、所轄の警戒員は配置されていて警備の隙を突かれた犯行だった。
警察庁ではトップが撃たれた事件の捜査方針をただちに決める必要があった。捜査は警視庁の刑事部と公安部のどちらが行うのか、長官が入院したためトップ代行となった関口祐弘警察庁次長、垣見隆刑事局長、そして杉田警備局長による緊急協議が行われた。警視庁刑事部は当時、地下鉄サリン事件などの捜査や逃亡した幹部の追跡、取り調べなどにあたっていたため、垣見刑事局長からは「捜査は公安部に任せたい」という意向が示されたが、杉田氏は異を唱えた。

杉田氏:
捜査にあたる警視庁では、刑事部と公安部は捜査手法の違いもあり、過去の長い歴史をみても関係はよくありません。お互いに壁がある中で、逮捕した教団幹部の取り調べは刑事部が行っているので重要な情報が伝わらず、うまくいくはずがないと思いました。
杉田氏は、「私はあなた(垣見局長)のサブでいいから一緒にやりましょう」と刑事部が捜査の主体となって、公安部はその下にはいる捜査態勢を強く進言した。しかし垣見局長は「こちらは手一杯なので公安部でやってほしい」と譲らず、結局、公安部が捜査することに決まった。
警視庁警察官が「長官を撃った」と供述
逮捕した教団幹部からは事件に関する供述は得られず、目撃情報からの捜査も進展がない中、翌年10月、衝撃的な事実が発覚する。
教団の信者だった警視庁の現職警察官がこの年の5月に「自分が長官を撃った」と供述していたことが明らかになった。この事実は、トップの警視総監から箝口令が敷かれ、副総監、公安部長、刑事部長、秘匿でこの警察官の取り調べにあたった公安部の限られた捜査員以外には知らされず、公表はもちろん、警察庁にも報告されていなかった。
また、この警察官は「銃は神田川に捨てた」と供述していたが捜索は行われず、極秘で調べにあたっている捜査員は「供述の裏づけは取るな」と命ぜられていた。

5カ月間にわたって秘匿された事実は、マスコミに送られた投書による告発で明らかになった。杉田氏や国松長官のもとにもその後、同様の告発文が送られた。
杉田氏:
事件発生から全国レベルで捜査員が事件解明のために必死で動いていましたが、中枢だった警察庁警備局が供述を知らず、現場を動かしていたことになります。驚愕しました。事実上軟禁状態だったわけで、長官とは、今後の捜査はオープンにやらなければならないと話しました。
この警察官は、地下鉄サリン事件の特捜本部に派遣されていて、捜査情報などを教団に漏らし、車両のナンバー照会もしていたことが分かり、その後、懲戒免職処分となった。また警視庁の公安部長は更迭され、警視総監は引責辞任したが、警察官の事件への関与は立件されなかった。供述が明らかになったあと、杉田氏のもとを訪れた公安部長は、「喉元まで言葉が出かかっていました」と吐露したという。

杉田氏:
役人をやめるときにこの事件だけは心残りでした。これが明らかにならない以上は、オウム事件は何だったのかということがずっと残ることになります。
杉田氏は「時効になっても引き続き真相解明のための捜査をしていくべきだと思うし、私ならそうします」事件への無念の思いを、涙をためて語った。
警察にとってはトップが狙われた事件を解明できず、身内をかばったともとれる捜査に禍根が残った。
複数説が浮上したが「時効成立」
また2003年には、別の強盗事件で服役していた男の関与が浮上した。
この捜査は警視庁刑事部の捜査1課が行い、男は自分が撃ったことをほのめかし、自宅などからは長官銃撃事件に関する大量の資料が見つかった。また男が、アメリカで犯行に使われたものと同型の銃を購入していたことも分かった。
教団による犯行とみて捜査を進めていた公安部とこの男の犯行と見立てる刑事部で、別の犯人像が示されることになったが、結局、どちらの事件でも犯行に使われた銃が見つからず、関与を裏づける証拠や供述も得ることができなかった。
長官銃撃事件は、発生から15年後の2010年3月30日に公訴時効が成立した。
未解決で終われば警察の敗北
米村敏朗元内閣危機管理監(73)は、事件発生6年後の2001年から警視庁公安部長として捜査にあたった。

米村敏朗元内閣危機管理監:
公安部長になって当時の捜査日報を最初から読んで、捜査員の話を何度も聞きました。
事件直前に現場近くで目撃された帽子とマスク、コートを着た不審な男など目撃情報も洗い直したという。
米村氏:
犯行をほのめかしていた強盗事件で服役していた男についても調べました。犯行に使われた同型の銃をアメリカで購入していたことは分かりましたが、銃は海に捨てたと言い、動機も二転三転して曖昧で逮捕の決め手には欠けました。
「長官を撃った」と供述した警察官もすでに情報漏洩で懲戒免職になっていた。
米村氏:
捜査員に確認しましたが、この警察官については現場で実行犯を支援したとみて調べていたが、まさか自分が撃ったと供述するとは思わなかったということでした。ただそうであれば徹底的に裏付け捜査をして白黒をつけていくしかない。情報漏洩が明らかなら地方公務員法違反で立件して、そこを突破口に詰めていけばよかった。未解決で終わったら警察の敗北であり、どんな結果になろうとも事実を明らかにしていくしかないのです。
自供に頼る捜査の限界
米村氏は当時、事件に関与しているとみられていた早川紀代秀元死刑囚らの取り調べも行ったが、すべての犯行を認めているとは思えなかったという。

米村氏:
早川元死刑囚は坂本弁護士一家殺害事件を自供しましたが、それはほかの共犯者が自供したからです。現場となったアパートの部屋では、中川智正元死刑囚が教団のプルシャを落としてのちに物証になりましたが、「自分がこうなったのはあいつが落としたせいだ」と怒っていました。

また一家を殺害したことも、「坂本弁護士の帰りを待って拉致しようとしたが、アパートの部屋で家族と寝ていることが分かり、麻原に連絡するとそれなら家族もやればいいと言われたのでやった」と悪いことをしたという後悔は感じられなかったという。
米村氏:
「麻原は自分のすべてで今でもそうだ」とも話していました。もしほかの犯行に関与していたとしても、証拠がない限りは自分から話すとは到底思えませんでした。
そして杉田氏が言うように、これまでのオウム真理教事件の延長戦で考えるならば、そのまま刑事部が対応するべきだったと指摘する。
米村氏:
長官事件の捜査では、事件の構図を見立てて、容疑者の自供を引き出していく公安部の手法より、物証や目撃などを積み上げて、科学捜査も取り入れる刑事部の手法のほうがあっていました。1本の幹からでた事件を切り取って任せるのではなく、全体の流れを見据えながら、人が足りないなら幹部を含めて思い切って刑事部を増員して、刑事部中心で捜査すべきだったと思います。
米村氏は、2008年8月から時効直前の2010年1月まで警視総監を務めた。その後、2010年3月に長官銃撃事件の時効が成立した時に警視庁は記者会見を行ったが、「教団による計画的、組織的テロだった」との見解を公表し、配布された資料には事件に関与したとされる教団信者の容疑性が匿名で記載されていた。警視庁は後継団体から名誉毀損で提訴され、損害賠償を命じる判決が確定した。
米村氏:
オウムが関与しているという疑いで捜査したことは間違いなかったと思います。ただ時効になっている以上は、基本的にはそこまでだったと思います。
第二のサリン事件、テロ事件は防げたか
一連の事件の警察の対応についてあらためて聞いた。

米村氏:
前年の1994年には松本サリン事件が起こっています。兵器としてしか使えない神経ガスによる無差別テロです。当然捜査対象であったと同時に、テロ対策は未然に防いでこそ成功で、ネクスト・ワン(第二のテロ)を防ぐ国家の危機管理の問題でもありました。
米村氏は「危機管理は情報の秘匿よりも、情報の開示があってこそ国民の理解と協力が得られる」と指摘する。

米村氏:
教団がサリンの原材料を大量購入し、山梨県上九一色村の教団施設周辺でサリンの残留物が見つかった時点でこうした事実を公表し、警視庁の応援を得るなどして、上九一色村の施設周辺での徹底した警戒監視や車両検問でサリンの生成や持ち出しを防げば、「第二のサリン事件」は防げたのではないでしょうか。松本サリン事件以降、警察は捜査・危機管理の両面において時間との勝負の中、正念場に立たされていました。地下鉄での事件は想定できなくても次のサリン事件は想定できたはずで、国家の危機管理として対応するべきでした。
長官秘書官の後悔と感謝
国松警察庁長官は銃撃事件から2カ月半後の1995年6月、杖をつきながら職場復帰を果たした。長官の後ろには銃撃事件で身を挺して長官を守ろうとした秘書官の田盛正幸氏(74)がいた。

田盛氏は広島県警出身でベルギー大使館や警察庁外事課などに勤務、警察庁に移り、銃撃事件の2カ月前に国松長官の秘書官となった。田盛氏は事件発生から20年、時効成立から5年が経った2015年、FNNのインタビューで当時の状況を初めて語った。
田盛正幸元秘書官:
長官が撃たれるまで兆候を察知できず 3発も銃撃を受けてしまいました。長官とご家族に申し訳ない気持ちは変わりません。
田盛氏は、国松長官が銃撃されたことの責任を痛感していると語った。

長官の送迎はマンションの住民に迷惑にならないように、マンションの近くで待機したあと、5~10分前にマンションの前に車を回していたという。そして出発前にマンションのゴミ置場やエントランス内の郵便受けやゴミ箱を確認していた。
田盛氏:
銃撃がおきて、長官のけがの程度を確認しましたが、撃たれた大きな跡はなく、長官に「出血しておりません」というと、長官からは「うん」というしっかりした返事がありました。救急車で奥さまと病院に向かい、長官も意識がありましたが、あとから腹腔内が大量出血していたと聞きました。現場検証に立ち会った後、病院に戻ったときに執刀医の先生から、心臓が何回も止まった、重篤な状態だったと聞きました。とにかく生きて頂きたいと朝まで病院で願い続けました。
事件から3日後に長官から集中治療室に呼ばれ、治療のため体にまだ多くの管がついていた長官から「田盛、けがはなかったか」と聞かれたという。

田盛氏:
ご自身の命が危ない中での暖かい言葉は忘れられません。
田盛氏は国松長官が1997年に退官するまで秘書官を務め、その後、大分県警本部長や警察庁国際テロ対策課長などを歴任したが、自分の反省でもあり思い入れもある銃器対策に力をいれてきたという。
田盛氏:
秘書として銃撃されるかもしれないという脅威への危機感がありませんでした。あの時、不審者に声をかけていれば、事前の確認をもっとやっていれば事件を防げたかもしれないという後悔ばかりが募っています」
警察トップの無念…事件解決への思い
国松孝次元警察庁長官(87)は、事件が公訴時効を迎えた2010年3月30日、筆者の取材に無念の思いを語った。

――事件が公訴時効を迎えたことへの率直な気持ちは?
国松孝次元警察庁長官:
残念無念。特に私の場合は一国の警察のトップとあろうものが、後ろから拳銃で撃たれたということ自体、不覚の極みと思ってました。その気持ちは今でも変わらないし、何としてもこの事件だけは解決してほしいと思っていました。
――事件の記憶は?
国松氏:
撃たれた衝撃と「しまった」という気持ちは鮮明に覚えています。次から次へと撃ってくる中で、なんとか逃げないといけない。秘書が体を引っ張ってくれたが、それ以外は覚えていません。

迅速な救命治療によって国松氏は事件から2カ月半後に復帰し、日常生活に支障をきたすような後遺症もなかったという。
そして事件翌年に警視庁の警察官が犯行を認める供述をしたことについては、捜査と報告の問題があったと話した。
国松氏:
あの証言をする以上は、何らかの形で関与しているのではないかと思いました。従って捜査はしないといけない。そして捜査についてはあのやり方でよかったのか振り返ってもらわないといけないと思います。捜査が不徹底であったと言われてもしかたがないでしょう。
国松氏は、「問題は、シロにもクロにもできないまま相当な時間が経過してしまったことです。のちの捜査に非常に大きな影響もあたえました。もっと早く判断をつけないとあとの捜査がゆがんでしまいます。それが警察官だったことで憶測が出て、事件全体に非常に悪い影響を与えました」と話す。

――警視庁から警察庁に報告がなかった
国松氏:
全国での捜査の調整をしている警察庁に報告がなかったのは困るし、処分も行いました。
この問題を受けて警視庁の公安部長は更迭され、警視総監も引責辞任した。公安部長から報告を受けたときは「名状しがたい悲痛な思い」だったという。
そして事件への教団の関与も、強盗事件で服役していた男の関与も「時効になってしまった以上、分からないとしか言いようがありません」と語った。
捜査の評価を国松氏に聞くと「要するに不合格ですよ。試験でいえば合格点はとれなかったのは間違いないこと。誠に残念ですが認めざるをえない」と話す。
二度と事件を起こさせないために
また国松氏は、オウム真理教の後継団体が活動を続けていることに懸念を示した。

国松氏:
2つにわかれようと3つにわかれようと、あれだけの大事件をやった組織が依然として継続して存在していることは、法制度を考えてもらわないと困ります。観察処分の中で徹底的にやって、二度とああいう事件をやらない態勢をとらないといけない。
警察トップだった国松氏は、事件で被害者にもなった。

国松氏:
私も自分自身が被害者になるまでは被害者の気持ちは分かっているようで分かっていないところがあったのかもしれませんが、本当に事件のことは痛恨の思い、忘れられるものではないですね。警察のトップが撃たれたという大変不覚な事態を起こしたことは、本当に痛恨の極みで、一生忘れることができません。
国松氏は97年に警察庁長官を退官後、スイス大使を経て、自ら救命医療で救われた経験から、NPO法人「救急ヘリ病院ネットワーク」の理事長になり、ドクターヘリの普及がライフワークとなった。「ドクターヘリをテーマにしたドラマのヒットも後押しになりました」と理事長を退任するときも思いを語っていた。
警察庁長官銃撃事件から30年、すでに時効となっているが、地下鉄サリン事件で日本中が治安に対する不安感を募らせていたときの警察トップの銃撃は、警察だけでなく、多くの国民が衝撃を受け、事件解決を望んでいた。
今も事件関係者は悔しい思いを持ち続けているが、紆余曲折を経たこの事件がどうして未解決に終わったのか、なにが足りなかったのか。今後おこりうる無差別テロなどへの対応や、情報開示の重要性など検証で見えてくるものは多い。
(執筆:フジテレビ上席解説委員 青木良樹)