1945年6月、長崎に原子爆弾が投下される約2か月前、長崎の県北に位置する佐世保市はアメリカ軍の空襲を受け1200人以上が犠牲になった。「佐世保空襲」だ。毎年追悼式典が行われてきたが、2025年は遺族の高齢化を理由に「献花式」に縮小された。戦争被害の実相を次の世代にどう伝えるか。市民の取り組みが続いている。
1242人の命を奪った焼夷弾
1945年6月28日、深夜11時50分過ぎ。大雨が降る佐世保の町に「空襲警報」が鳴り響いた。

アメリカ軍は141機ものB29で爆撃し、16万から20万ともいわれる焼夷弾で町を火の海にした。焼夷弾は、燃えやすい燃料を詰め、着火させることで攻撃対象を焼き尽くす爆弾だ。

絶え間なく次々と攻撃する波状攻撃は約3時間続き、市街地の3分の1にあたる178万㎡を焼失。確認されているだけで、1242人の尊い命が奪われた。
利用価値ある「港を外した」攻撃
佐世保空襲の特徴は「精密爆撃」と言われ、攻撃対象を的確に狙ったものだった。

佐世保市は1889年に旧日本海軍の拠点地である鎮守府(ちんじゅふ)が開かれて以来、海軍の重要拠点として発展してきた。アメリカ軍は占領後に、自然の良港といわれる佐世保港をそのまま使いたい狙いがあり、建造中の潜水艦があった“港”を外して攻撃した。

一方、市の中心部は焼夷弾による火災で、ほとんどの木造家屋や建物が消失した。鉄筋コンクリート造りの佐世保市役所、地元の象徴的な存在だった佐世保玉屋も、建物の外側が残るばかりで内部は燃え尽きていた。佐世保の町は空襲による火災で、都市機能は完全に破壊されたのだ。
ガソリンで火葬「こんな馬鹿な戦争を」
6月28日、佐世保市内で営まれた空襲犠牲者の法要に佐世保空襲犠牲者遺族会の元会長・臼井寛さん(91)の姿があった。

遺族会は会員の高齢化などを理由に2024年3月に解散した。11歳のときに空襲を受けた臼井さんは現在91歳。3カ月前からケアハウスに入所している。

臼井さんは「死体が山のようにあった。ピラミッド状に積んであった。」と、当時の惨状を語った。積み上げられた死体の中には、学徒動員で労働していた10代前半の高等小学校の生徒も数多くいたという。
臼井さんは祖母と叔父と叔母を亡くした。遺体を火葬場に運ぶと、大勢の遺族と積み上げられた遺体でその場にいることすらできなかった。行きついた先は火葬場近くの広場。家族とともに3人の遺体に自分たちの手でガソリンをまき、火葬した。
臼井さんは、「こんな馬鹿な戦争を誰が始めたんだ」と、涙を流しながら大声で怒鳴ったと言う。しかし終戦前だった当時、逮捕こそされずに済んだが、非常に問題視される発言だったため相当な批判を浴びたという。当時の事は「生涯忘れられない」と臼井さんは語る。
アメリカ海軍兵も訪れる資料館
佐世保空襲の実相を後世に伝えようと、2006年に「佐世保空襲資料館」が開設された。

毎週土曜日と日曜日に見学することができ、市民から寄せられた資料の数は約1500点にのぼる。
資料館には、アメリカ海軍の兵士も訪れる。

アメリカ海軍兵士のイェール・ウィリアムさん(34)は「横須賀と佐世保に駐留する5年の間に日本の歴史と文化を学びたい」と、資料館に足を運んだ。

第二次世界大戦中の死者、特に佐世保への爆撃に対して深く悔やむ気持ちを抱いているというイェール・ウィリアムさん。「この出来事は戦争を何としても防ぎ、第二次世界大戦のような悲劇を二度と繰り返してはならないという教訓を与えていると思う」と話す。
子どもが広げてくれる見学の輪
資料館は、佐世保空襲を語り継ぐ会のメンバーがボランティアで運営している。以前は遺族会と共同で管理していたが、遺族会が2024年3月に解散してからは仕事量が増え、継続が難しくなっている。

「佐世保空襲を語り継ぐ会」の木原秀夫代表(80)は、会員が80歳前後で、担い手の少なさが一番の問題と危惧する。しかし、見学に訪れる子供たちと接する中で資料館の必要性は強く感じているという。

「子供たちが資料館を見学し、家に帰って話をすることで今度はお父さん、お母さんを連れてやってくる。これは非常に大きな収穫で、我々のやっていることが間違いなかったんだ、もっともっと広げていくんだと元気をもらえる」と木原さんは語る。
直接語られる戦争体験 若い世代が思う平和
6月28日、「佐世保空襲を語り継ぐ会」は体験者の証言を聞く場を設けた。

佐世保空襲体験者の松瀬秀俊さん(94):焼夷弾には重たい分銅が付いている。それを下にして落下し炸裂する。横を向いて落ちると不発弾になる。
佐世保空襲犠牲者遺族会元副会長の山口廣光さん(86):1万m上空を飛行機が飛んでいた。B29が141機。雨だれのように焼夷弾が落とされ、照明が照らされていた。
参加した約60人の中には、若い世代の姿もあった。

佐世保工業高等専門学校1年の関口舞さん(15)は「話を聞いて正直怖いなと思った部分もある。戦争はそれだけ影響力がある怖いものなんだなと。だからこそ戦争をなくし平和にしたいと思った」と語った。
「風化させない」市民の願い
佐世保市は、6月29日を「佐世保空襲の日」として犠牲者の追悼を行っている。

佐世保市の宮島大典市長は「今日に至るまでの平和な社会が築けたのは空襲の犠牲者をはじめ戦争で亡くなった多くの尊い犠牲の上に成り立っていることを決して忘れてはならない」と、追悼の言葉を述べた。

空襲で家族3人を失った臼井寛さん(91)は「世界から戦いを無くす方向へ繋いでいくことが 我々の最後の役目」と語った。

佐世保空襲から80年。県内では長崎市の原爆投下以外にも29回の空襲が記録に残っている。その一つ一つの歴史を風化させないよう、多くの市民たちがそれぞれの思いを胸に平和を守る活動を懸命に続けている。
(テレビ長崎)