1995年3月22日、地下鉄サリン事件の2日後に、警視庁などがオウム真理教の関連施設に一斉捜索に入った。捜索の最重要箇所は、教祖の麻原彰晃こと松本智津夫元死刑囚がいるサリン生成のプラントなどがあった山梨県上九一色村(当時)の教団施設だった。

上九一色村で強制捜査の指揮にあたった警視庁捜査一課理事官だった山田正治氏(84)は、3月20日の地下鉄サリン事件発生時は警視庁にいた。

当時、警視庁捜査一課理事官だった山田正治氏(84)。上九一色村で強制捜査の指揮にあたった
当時、警視庁捜査一課理事官だった山田正治氏(84)。上九一色村で強制捜査の指揮にあたった
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山田正治 氏:
ちょうど刑事部長室で、捜査一課長とともに強制捜査の打ち合わせをしていました。事件の報告が入り、サリンを使われたかもしれないと思いました。刑事部長からは、警視庁の科学捜査研究所に連絡して原因物質を解明するように指示がありました。

前年94年6月に起きた松本サリン事件の捜査で、教団がサリンの原材料を購入していたことが分かり、上九一色村の教団施設周辺でサリンの残留物が検出された。

巨大な施設が建ち並ぶ教団の本部は山梨県・旧上九一色村にあった
巨大な施設が建ち並ぶ教団の本部は山梨県・旧上九一色村にあった

警察庁はこの年の秋から、教団による事件があった各県警との協議を行っていたが、事件がなかった警視庁はまだ入っていなかった。

都内で相次いだオウム真理教の事件

95年1月4日には東京・港区で、「オウム真理教被害者の会」会長の永岡弘行さんが猛毒のVXをかけられて一時、重体となる事件が起きた。

地下鉄サリン事件後、会見する永岡弘行さん(1995年6月)
地下鉄サリン事件後、会見する永岡弘行さん(1995年6月)

山田 氏:
刑事部長からサリンと関係があるのか調べてくれと電話があり、すぐに病院に行って医師に確認しましたが、何が原因か分からないという回答でした。その時点では決め手がなく、教団の捜査はできませんでした。

強制捜査後の実行犯の逮捕で、永岡さんの事件は教団の犯行と分かったが、当初は農薬と似た成分が検出されたため、「農薬を飲んだことによる自殺未遂」という事件の見立てだった。

オウム真理教に拉致され殺害された、目黒公証人役場事務長だった仮谷清志さん
オウム真理教に拉致され殺害された、目黒公証人役場事務長だった仮谷清志さん

そして2月末に東京・品川区で、妹を脱会させようとしていた仮谷清志さん監禁致死事件が発生。3月半ばに、犯行に使われたレンタカーの契約書に残された指紋と、別件で採られていた信者の指紋が一致したことから、教団による犯行の証拠が固まった。

地下鉄サリン事件発生で、警視総監から一斉捜索指示

山田 氏:
指紋の一致などで仮谷さん事件の容疑で捜索令状は取れる状況になりましたが、当初は仮谷さん事件と教団の関わりをもう少し時間をかけて解明していく方針でした。地下鉄サリン事件が起きて、警視総監からすぐに捜索するように指示があり、上九一色村や都内の教団施設などの一斉捜索が決まりました。急遽、捜索令状を作成して、裁判所に請求しました。

強制捜査以降、警察は地下鉄サリン事件の立件に向けて、全国各地で教団幹部や信者らを逮捕して、関連書類などを押収、分析した。最大の目標は教祖の麻原元死刑囚の逮捕だった。

サリン生成を認めた土谷正実 元死刑囚
サリン生成を認めた土谷正実 元死刑囚

山田 氏:
サリンは誰がどのように作ったのか、実行犯と指揮したのは誰か、そして麻原元死刑囚がどのように関わったのかが分からないと麻原元死刑囚を逮捕できません。土谷正実元死刑囚がサリン生成を認めたこと、そして林郁夫受刑者が、事件は麻原元死刑囚の指示だったことなどを供述したことで逮捕状を取ることができました。

無期懲役となった林郁夫受刑者(1995年 オウム真理教の会見)
無期懲役となった林郁夫受刑者(1995年 オウム真理教の会見)

教団の医師だった林受刑者は地下鉄サリン事件の実行犯だが、自らの関与と事件の全容を供述したことで無期懲役が確定している。

隠し部屋に気づいた刑事の勘

強制捜査から約2カ月がたった5月16日早朝、麻原元死刑囚逮捕のため、山田氏が率いる部隊が第6サティアンに入った。

「逮捕状は前日の夜に取りました。3月の強制捜査以降、麻原元死刑囚が居住する第6サティアンの監視を続け、居住している部屋も確認していました」と話す山田氏。しかし、捜索開始から2時間半がたっても、麻原元死刑囚を発見できなかった。第6サティアンは複雑な構造で、多くの小部屋があったのだ。

山田 氏:
自分もそれまで別件の捜索で、サティアンの麻原元死刑囚の部屋にも何度も入っていたので、すぐに逮捕できると思っていました。『いませんでした』と帰るわけにはいかないし、見つけるまで粘るしかないと。

当時、所轄から応援に来ていた刑事の牛島寛昭 氏。“刑事の勘”が捜索に進展をもたらした
当時、所轄から応援に来ていた刑事の牛島寛昭 氏。“刑事の勘”が捜索に進展をもたらした

午前8時過ぎ、捜索がいったん休憩に入った時、所轄から応援に来ていた刑事の牛島寛昭氏(68)が、捜査員に「気になることがある」と話しかけた。牛島氏は強制捜査以降、第6サティアンの監視にあたっていたが、監視中に信者がサティアンの窓から身を乗り出して、建物の外壁に換気扇のカバーを取り付けていたことを思い出した。

牛島寛昭 氏:
隠れるために必要なものは、水と食料と空気。あれは隠し部屋のための空気口ではなかったのかと思いました。

第6サティアンの隠し部屋と、空気口のイメージ図
第6サティアンの隠し部屋と、空気口のイメージ図

牛島氏はサティアンの中に入って、換気扇からつながる2階の天井裏に目星をつけ、「ここを壊してみてください」と天井を指さした。

隠し部屋の実際の画像。麻原元死刑囚は横たわって隠れていた
隠し部屋の実際の画像。麻原元死刑囚は横たわって隠れていた

捜査員が壁を壊すと、男が隠れているのが見つかった。「麻原か」と聞くと、低い声で「はい」という答えが返ってきた。山田氏は警視庁本部に、麻原発見の一報を伝えた。

隠し部屋の空気口(黒丸で囲った部分)
隠し部屋の空気口(黒丸で囲った部分)

麻原元死刑囚は高さ50センチ、縦3メートル、横1メートルの隠し部屋に横たわって隠れていた。枕元のかごには、現金約1000万円が入っていた。隠し部屋には空気口が2箇所あり、麻原元死刑囚は逮捕の瞬間、「ブルブルと震えていた」という。(牛島氏)

診察を「カルマがつく」と拒否

山田 氏:
大柄だったので脚立を2つ立てて、足から引っ張って隠し部屋から下ろしました。警察病院の医師が健康状態の確認のために触診しようとすると、『カルマがつく』と言って拒否しました。

逮捕直後の麻原元死刑囚
逮捕直後の麻原元死刑囚

地下鉄サリン事件の逮捕状を読み上げ、山田氏はその様子を遠巻きに見ていた牛島氏を呼んで、「君が手錠をかけろ」と命じた。そして警視庁本部まで麻原元死刑囚を連行させた。

麻原元死刑囚を連行する牛島氏(迷彩服)
麻原元死刑囚を連行する牛島氏(迷彩服)

捜索で山田氏は、サティアンの裏から、捜査一課の捜査員や狙撃手とともに拳銃を携帯して、最初に麻原元死刑囚の部屋に入った。サリンが使われることも覚悟していたという。「発見してくれて、正直ほっとしました」

麻原元死刑囚を聴取する山田氏
麻原元死刑囚を聴取する山田氏

山田氏はその後、捜査一課長や池袋署長などを務めたが、科学捜査や自衛隊の応援を得た一連の事件で、組織捜査の大切をあらためて教えられたという。

「オウムに先んじられた」

警視庁の刑事部参事官だった広畑史朗氏(72)は、車で警視庁に向かっている時に、地下鉄サリン事件の発生を知った。

広畑史朗 氏:
すぐに刑事部の対策室に行きましたが、『オウムにやられた、先んじられた』という思いでした。それまで松本サリン事件や敵対する人たちへの化学物質での攻撃はありましたが、限られた地域や個人を標的にしたもので、サリンを大量に生成し、これだけの大規模な事件を起こすという想定は恥ずかしながらありませんでした。

事件当時、警視庁の刑事部参事官だった広畑史朗 氏
事件当時、警視庁の刑事部参事官だった広畑史朗 氏

教団は1989年の坂本堤弁護士一家殺害事件や松本サリン事件を起こし、サリンなど生物化学兵器の生成や銃器の密造などをしていたが、明らかになったのは強制捜査の後で、警察もメディアも地下鉄サリン事件は想定していなかった。

広畑氏は事件後、警視庁の対策本部の副本部長として捜査の支援にあたった。3月22日の強制捜査に向けて、自衛隊の協力を得て、防毒マスクや防護服、大量の押収品のためのトラックなどが準備された。

有毒ガスに反応するというカナリア。都内の店からかき集めたという
有毒ガスに反応するというカナリア。都内の店からかき集めたという

広畑 氏:
有毒ガスに反応するというカナリアはちょうど繁殖期の前で少なかったのですが、都内の店を回らせて20羽ほどかき集めました。

捜査の広がりに愕然

強制捜査以降、連日のように教団幹部や信者が逮捕され、教団が関与した殺人事件や拉致事件が次々と明らかになった。また大量の化学物質や原材料も見つかり、広畑氏も「捜査がどこまで広がるのかつかめず、愕然(がくぜん)としていた」という。

そして麻原元死刑囚逮捕の日を迎える。

逮捕直後の麻原元死刑囚
逮捕直後の麻原元死刑囚

広畑 氏:
未明に部隊は警視庁を出発していて、祈るような気持ちで逮捕の報告を待っていました。逮捕後しばらくして乾杯のビールに口をつけましたが、地下鉄サリン事件以降、休みを取らずに警視庁の部屋で寝泊まりして、その日はほとんど寝ていなかったのでうとうととしてしまい、気づくと周りの多くの捜査員も机に伏していました。

オウム真理教によって殺害された坂本弁護士一家(堤さん・龍彦ちゃん・都子さん)
オウム真理教によって殺害された坂本弁護士一家(堤さん・龍彦ちゃん・都子さん)

警視庁着任前は、坂本弁護士一家殺害事件があった神奈川県警の警備部長だった広畑氏。「戦前の宗教弾圧の負の歴史もあり、宗教法人だったことでの捜査への影響は、坂本さんの事件に限らずあったと思います」と振り返る。

警察庁長官銃撃事件は時効 「ただただ残念」

3月30日には国松警察庁長官銃撃事件が発生し、長官は一命を取り留めたものの、警察トップの銃撃に大きな衝撃が走った。

広畑 氏:
朝、寝泊まりしていた参事官室で聞いて、エーと驚きました。神も仏もないのかと。すぐに知り合いの全国各地の警察幹部に電話して、情報収集を頼みました。

この事件では警視庁の警察官が「自分が撃った」と供述したが、警視総監ら数人の幹部らに情報はとどめられ、銃を捨てたとされる神田川の捜索もすぐに行われなかった。

銃撃事件後、職場復帰した国松警察庁長官(95年6月)
銃撃事件後、職場復帰した国松警察庁長官(95年6月)

結局、事件は未解決のまま2010年に時効となった。

広畑 氏:
刑事の考えは、容疑があるなら逮捕・起訴して裁判で事実を明らかにするというのが常道です。ただただ残念としか言いようがありません。

捜査も一段落した6月半ば、広畑氏は強制捜査以降で初めての休みを取ったが、気が緩んだのか2日後には風邪をひいてしまったという。

広畑 氏:
上九一色村の現場や容疑者の取り調べにあたっている刑事の苦労に比べれば何でもありませんが、やせ我慢とから元気で乗りきっていたのだと思います。

「安心安全のターニングポイントだった」

広畑氏はその後、福岡県警本部長や警察庁外事情報部長などを務めたが、事件があった30年前は節目の年だったと話す。

「95年1月には西で阪神・淡路大震災が発生しました。この大災害も、東で起きた地下鉄サリン事件も、予想しないこと、想定しないことへの対応を迫られました。従来の安心安全のターニングポイントになった年だったと思います」と振り返る。

アレフの施設内に飾られている松本智津夫元死刑囚の写真 公安調査庁提供
アレフの施設内に飾られている松本智津夫元死刑囚の写真 公安調査庁提供

広畑 氏:
オウム真理教の全容は解明されないまま、今も後継団体の「アレフ」などが活動を続け、被害者の支援は不十分で苦しんでいる多くの人たちがいます。
社会があの事件をどう受け止めて今にどういかしているのか、メディアにも足らざる点を追及する息の長い報道を続けてほしいと思っています。                                      

【執筆:フジテレビ報道局特別解説委員 青木良樹】 

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青木良樹
青木良樹

フジテレビ報道局上席解説委員 1988年フジテレビ入社  
オウム真理教による松本サリン事件や地下鉄サリン事件、和歌山毒物カレー事件、ミャンマー日本人ジャーナリスト射殺事件をはじめ、阪神・淡路大震災やパキスタン大地震、東日本大震災など国内外の災害取材にあたってきた。