死者14人、重軽傷者約6300人にのぼった地下鉄サリン事件から30年となり、20日、現場のひとつとなった東京メトロ霞ヶ関駅の献花台には被害者や遺族、関係者ら多くの人が訪れた。そして事件から30年が過ぎたが、今も後遺症に苦しむ多くの人たちがいる。

地下鉄サリン事件や松本サリン事件の被害者の検診など健康面のサポートにあたってきたNPO法人「RSCリカバリー・サポート・センター」でも被害者やスタッフ約50人が、死傷者が最も多かった日比谷線小伝馬町駅から八丁堀、築地、神谷町、霞ヶ関、そして中野坂上駅まで事件による死者がいた各駅の献花台を訪れて、冥福を祈った。
今も続く身体と目と心の不調
RSCは、地下鉄サリン事件翌年の1996年から活動を始め、これまでに延べ2700人以上の被害者が毎年行われる検診を受診してきた。多くが「体がだるい、疲れやすい」といった身体症状のほか、「目が疲れる、かすむ、焦点があわない」などサリン特有の目の症状の訴えが多い。

また「今も地下鉄に怖くて乗れない」などのPTSDも多く、オウム真理教の後継団体が活動を続けていることもあり、自分の存在が明らかになることへの恐怖を感じている被害者もいるという。
理事長の木村晋介弁護士(80)は「当初考えていたよりも後遺症の症状は重く、大勢の人が被害を訴えて検診にきました。放っておけませんでした」と話す。通勤途中の被害者が多く、労災の相談もあったが、症状によって労災が認定されないこともあったという。
「被害者同士の結びつきが大切」
木村弁護士と山城洋子事務局長(76)は、「様々な症状に悩む被害者にとって、被害者同士の結びつきが何よりも大切です」と話す。

新宿御苑では被害者が集まるイベントが行われてきたが、「被害にあったのは自分だけではないと実感でき、お互いに症状を相談できることが安心につながる」という。

地下鉄サリン事件の被害者は、東京近郊から地下鉄で通勤していた若い女性も多かったが、30年の付き合いで旅行や食事などを楽しむグループもあるという。「検診会場にも談話室を作りましたが、そこで笑顔で話している皆さんをみるとほっとします」
被害にあった妊娠中の女性が出産を迷っていた時に、検診にあたる医師のアドバイスもあって、無事に出産できたこともあったという。「翌年、赤ちゃんを連れて検診に来たときには、皆が拍手で出迎えました」
今も続く坂本弁護士への良心の呵責
木村弁護士は1989年に当時出演していたラジオ番組で、オウム真理教の信者の脱会支援をしていた坂本堤弁護士に電話で出演してもらい、麻原彰晃こと松本智津夫元死刑囚を同じく電話でつないで、脱会問題について放送した。その後、坂本弁護士一家は行方不明となり、今も良心の呵責があるという。

「複数の弁護士で出演してもらうなど制作側にアドバイスすればよかったと思っています。その後、坂本弁護士一家の救出活動にも携わりましたが、RSCを続けてきたのは自分の責任を果たすことでもありました」
坂本弁護士事件をめぐっては、坂本弁護士にインタビューしたテレビ番組が、抗議にきた教団幹部に放送前のインタビューのビデオテープを見せた上に、放送を中止したことが大きな問題にもなった。
被害者からの感謝の言葉「苦しむ人の役に立ちたい」
RSCは検診の受診者が年々減ってきていて、高齢化や症状と折り合いをつける被害者も増えてきたことから3月で解散して活動を終えるが、被害者同士が自主的につながり、交流できる仕組みをサポートしていくという。

「寄り添って下さって、本当にありがとうございます」
「私も苦しむ他の人々の役に少しでも立ちたいと願っています」
解散することが分かり、RSCには多くの被害者から感謝の言葉が寄せられている。
松本サリン事件 河野義行さんを取材
筆者がオウム真理教の取材に関わったのは、まだ教団の犯行と分かる前の1994年6月の松本サリン事件だった。
長野県松本市の閑静な住宅街で深夜、有毒ガスが突然発生し、8人が死亡、600人以上が負傷した事件は、ナチス・ドイツが開発した化学兵器「サリン」が使われたことが分かり、初めて聞くその物質名に多くの人が驚き、連日、報道が続いた。

そして事件の第一通報者だった河野義行さん(当時44)に対して、警察が事情聴取と家宅捜索に乗り出したことで、メディアの報道は過熱し、河野さん宅はカメラと記者に取り囲まれた。
東京でニュース番組を担当し、事件を受けてサリンについて取材していた筆者は、有機化学の第一人者だった東京大学の森謙治教授(故人)に依頼して、河野さん宅にあった青酸化合物などの薬品や、当時の天候や風向きなどを分析して、サリン発生の状況を科学的に解明したいと河野さん側に働きかけ、事件発生から約2カ月後の8月下旬、河野さん宅で取材することになった。

サリン中毒の影響で床についていることが多いという河野さんは、パジャマ姿で疲れた様子だったが、事件当時の状況を克明に説明してくれた。

森教授とともに推測したのは、自宅や周辺の検証から空気より重いサリンは、おそらく河野さん宅の庭の前にある駐車場付近で発生して、河野さん宅1階の床下を通り抜けて裏庭の犬小屋を直撃、そして隣接していた会社の寮やアパートの壁を這うようにして広がり、各階の室内に流れ込んで被害が広がったのではないかというものだった。
河野さんはインタビューで、「事件があった夜は最初に飼い犬の鳴き声を聞いて、様子を見にいったところ、犬が泡を吹いて死んでいて、毒を盛られたと思った」と話していたが、その説明とも合致していた。

また、河野さんの妻澄子さんは重度のサリン中毒となったが、気分が悪くなったあと床に横になったため、床下にたまったサリンが板の間の隙間から漏れ出て、症状が悪化したとも推測された。そして我々が確認した河野さん宅にあった薬品からはサリンが作れないことも分かった。
「疑惑を晴らして元の生活に戻りたい」
もちろんこれだけで、河野さんが事件に無関係だといえるものではなかったが、科学的な検証結果を翌日のニュース番組で放送した。インタビューの最後に河野さんに逮捕される可能性について聞くと、「容疑者扱いの捜査には協力できない。疑惑を晴らして早く元の生活に戻りたい」と語った。

河野さんはサリンで低酸素脳症となった澄子さんの介護を続けたが、事件から14年後の2008年、澄子さんは意識が戻ることなく亡くなった。
「オウム、警察、マスコミは同罪」
河野さんは麻原元死刑囚の死刑が執行される直前の2018年、再びインタビューに答えてくれた。

「あの時は容疑者のような報道をされて、自分が知っている人以外はみんな敵に見えました」「殺人者になれば妻は意識不明のまま居場所がなくなる。そうなってはいけないと」
そして率直な思いを語った。
「事件をおこしたオウム真理教、犯人扱いした警察、そして間違った報道で世間のバッシングを招いたマスコミ、私からみればみな同罪です」
続く“麻原信奉”はびこる「手を汚さない犯罪」
筆者は翌年、警察担当の記者となり、一連の教団の事件を取材したが、強制捜査のさなかもテレビ出演して、国家の謀略だと声高に主張する教団幹部、そして“尊師”の麻原元死刑囚への信仰を続けるヘッドギアをつけた信者は、事件が明らかになるにつれて、まるで目が覚めたように麻原元死刑囚との決別を告げ、教団から離れていった。

しかし事件から30年を経て、後継団体のアレフなどは活動を続け、公安調査庁は今も麻原元死刑囚を信奉しているとみている。またこうしたカルトだけでなく、特殊詐欺やサイバー犯罪など自分の手を直接、汚さない犯罪がはびこっているように見える。

「今回、事件から30年という節目で、被害者や弁護士、警察関係者らを取材して、様々な話を聞き、メディアに対しての厳しい声、励ましの声もいただきました。目の前にある事実とその背景、そしてその時その場所でその出来事に関わった人たち声を伝えていくことの大切さをあらためて教えられたと感じています」(筆者)
(執筆:フジテレビ特別解説委員 青木良樹)