「命のビザ」で数千人のユダヤ人の命を救った外交官、杉原千畝。彼と同世代に、日本とポーランドの友好関係の礎を築いた外交官がいた。知られざる外交官が残した偉大な功績をたどった。

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約120年前に福井県敦賀市で生まれた外交官、野口芳雄。謎に包まれた彼の経歴を取材するため、東京にある外交史料館を訪ねた。この史料館で外交史の編さんをする東京女子大学の黒沢文貴名誉教授が、取材に応じてくれた。「私が野口さんの名前を知ったのはいわゆる『ポーランド孤児』という事業の関係です」

東京女子大学の黒沢文貴名誉教授
東京女子大学の黒沢文貴名誉教授

ポーランド孤児を迎え入れた敦賀に生まれる

ポーランド孤児とは、約100年前、極寒のシベリアで親と離れ離れになり命の危機に瀕していたポーランド人の子供たちのことだ。

ポーランド孤児
ポーランド孤児

1920年から3年間かけて、763人の孤児が日本赤十字社の支援によりシベリアから救出され、船で敦賀港に上陸。その後、東京や大阪で静養し全員が無事に祖国へと送り届けられた。

敦賀港に上陸したポーランド孤児
敦賀港に上陸したポーランド孤児

黒沢名誉教授は「野口さんは1904年に福井県敦賀市の生まれで、敦賀商業学校のロシア語科を卒業されたということで、おそらくポーランド孤児が敦賀に上陸したときに、非常に温かい気持ちでお迎えしたと思います」と当時の情景を話してくれた。

ポーランドで孤児と再会し交流

1920年の敦賀港で初めてポーランド孤児に出会った野口。その後、高校を卒業し外務省に入ると、ロシア語のスペシャリストとして各地を飛び回った。出会いから約15年後の1936年にポーランドに赴任し、孤児達と再会を果たすことになった。

外交官・野口芳雄の経歴
外交官・野口芳雄の経歴

ポーランドで孤児の研究をしてきた松本照男さんは「日本という国に助けられて祖国に無事帰還できた。でも親がいないんだからお互いに助け合わないと大変だということで、相互に助け合う組織『極東青年会』を作ったのです。それと同時に、日本との親睦活動もしていたのが極東青年会です」と教えてくれた。

ポーランド孤児が結成した「極東青年会」
ポーランド孤児が結成した「極東青年会」

さらに、この団体と日本大使館とのパイプ役になったのが野口だったという。「日本とポーランドという国はいろいろな意味で交流がなかった。そういう面では、日本と友好関係を結んだのは極東青年会のポーランド孤児たちが初めてではないでしょうか。いわば“日本とポーランドの交流の端緒”で、その仲立ちとして日本側を代表したのが野口さんなので、大変貴重な存在です」(松本さん)

フリージャーナリストの松本照男さん
フリージャーナリストの松本照男さん

当時、発行された書籍にも「この青年たちはアドバイザーとして日本大使館の野口君を本当の兄貴のように慕っているのを見た」と書かれていて、深い関係だったことがうかがえる。

「もう一度ポーランドに」異例の外交文書

外交官として日本とポーランドの架け橋となった野口。その活動内容がわかる資料がポーランドに残されていた。極東青年会がポーランドで発行していた「極東の反響」という雑誌は、日本の写真や文字が解説され、ポーランドの人に日本の魅力を伝える役割を果たしていた。この雑誌に野口はコラムを寄稿したり、野口基金という名前で恵まれない子供を中心に寄付をしたりしていた。

「極東の反響」に記された野口基金
「極東の反響」に記された野口基金

その献身的な活動は極東青年会のメンバーの心に強く残り、後に異例ともいえる外交文書が日本に送られることになった。

「これは野口書記生に対するポーランド極東青年会陳情書送付の件、ということで『野口さんが極東青年会の活動に非常に尽力された』と感謝の念が述べられているとともに、帰国した後も、もう一度ポーランドに戻ってきてほしいという内容の陳情書です」(黒沢名誉教授)

黒沢名誉教授は「赴任国の方々からこういった陳情書がでるのは本当にないものですから、野口さんの誠実な外交活動、特に極東青年会の人たちとは個人的なレベルで信頼関係を築いたのではないかと思います」と話す。

いまでは毎年、首都ワルシャワで「日本祭」と呼ばれるイベントが開催されるなど、ヨーロッパ有数の親日国となったポーランド。そこには敦賀出身の名もなき外交官の姿があった。

福井テレビ
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