2025年は昭和で言うと100年の節目です。戦争、復興、長期不況など激動の100年を地域と共に乗り越え、歩み続けている企業が岡山にあります。企業を通し岡山の近現代を振り返ります。

晴れの日を楽しむワンランク上の食材や、大切な人に贈るプレゼント選び…。地域の生活と共にある岡山市中心部の百貨店、天満屋岡山本店です。天満屋は2025年、百貨店として営業を始めて100周年となります。

(客は…)
「子供の頃から母と一緒に(来ていた)。微力だが大好きなので応援している」
「小さい頃からずっと天満屋に来ていて、屋上に遊園地があるころから来ていた。長い間続いていてすごいと思う」

百貨店としては中国地方で5店舗を持ち、グループ全体での従業員は約5700人、2023年度の売上は854億円です。

経営理念に刻まれるのは「地域社会」の文字。地域の中で生まれ地域と共に成長し、地域を象徴する存在となりました。

(天満屋岡山本店 岸本彰治店長)
「地方百貨店の置かれている立場が変わっていく中で、地域のみんなと一緒にものをつくって成長していく」

天満屋は江戸時代の1829年に、商いの中心地であり流通を担った北前船が寄港していた岡山市東区西大寺で、小間物店として産声を上げました。明治になり岡山でも鉄道が通じて近代化が進む中、昭和元年の前の年、1925年に岡山で初めて百貨店に転換しました。

(天満屋岡山本店 岸本彰治店長)
「船での物流文化から陸路に変わっていくという社会情勢の中で、立地としてこちらの方がいいだろうと判断し、1925年に百貨店に業態転換した」

岡山で初めてエレベーターを導入するなどモダンな演出が話題を呼び、店はにぎわいました。

太平洋戦争中は、経済統制により思うような営業ができず、昭和20年(1945年)の岡山空襲ではまちが火の海となる中、店舗も焼けてしまいました。

戦後、経営理念として「地域社会への奉仕」を掲げ、岡山の復興にまい進します。昭和24年(1949年)には、今でも地域の足として使われるバスターミナルを店舗の隣に開設。そして高度経済成長の波が押し寄せ、昭和47年(1972年)に山陽新幹線の新大阪-岡山間が開業する中、店舗は大いににぎわい、地域経済をけん引するようになります。

文化事業にも力を入れ、葦川(いせん)会館や美術画廊での催事ものが地域の心をつかみます。

(天満屋岡山本店 岸本彰治店長)
「文化を岡山に根付かせるため、葦川会館で毎年歌舞伎の公演をしていたし、院展も正月にやっている。それ以前に日展も開催して記録的な動員をしている。そういった中で脈々と(文化事業が)受け継がれてきた」

倉敷、広島で次々と百貨店を構え、中国地方各地に岡山の商いを広げていきました。

時代は平成を迎え、転機が訪れます。バブル経済が崩壊し、デフレによる長期不況に。高級品を最高のサービスで提供する百貨店にとっても冬の時代となりました。

(天満屋岡山本店 岸本彰治店長)
「客に(商品を)安く提供したりと試行錯誤したが、結果的に客にそういった点のニーズがなくて、われわれに求められているのは優良商品であり、のれんに見合った品質であることが原点だと感じた」

一方、平成には高松市で百貨店を開業し四国にも進出。創業家から知事を輩出し、岡山における地位は不動のものとなりました。

そして令和。コロナ禍による業績悪化は落ち着いたものの、物価高騰への懸念が高まっています。その一方、外国人観光客の増加という新たな商機も。世の中が目まぐるしく変化する中、若手社員からこんな言葉が出ています。

(若手社員は…)
「これからは地域の人たちに恩返しし還元する必要があるので、地域の人に喜んでもらえるような取り組みをしたい」
「百貨店の商品やサービスを超えた付加価値、地域に密着した取り組みなどで地域の皆さんに認めてもらえる天満屋でありたい」

若手社員は会社への提言をまとめ、100周年の記念日となる3月10日に提出します。岸本店長も地域と共に歩んできた歴史を尊重しながら、新しい手法を取り入れたいとします。

(天満屋岡山本店 岸本彰治店長)
「地域で生産している商品やサービス、連動したイベントを自治体と連携しながら創出していくことが必要になる。逆に岡山発の商品を全国や世界へと発信していくフェーズ(局面)が必要になってくる」

昭和100年。時代が変わっても地域と共にありたい。天満屋の歩みから見えるのは、岡山の人々が育んできた心であり、未来をひらくヒントと言えます。

岡山放送
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