かつて世界一の人口密度を誇った長崎港の沖合約19キロに浮かぶ軍艦島(端島)。閉山から50年を機に軍艦島の歩みを振り返る「端島・軍艦島 閉山50年」。企画の3回目は閉山後の島の保存・活用に向けた動きについてまとめる。

閉山から29年 元島民たちがふるさとのために団結

周囲わずか1キロあまりのこの小さな島は、かつて石炭産業の最前線として日本の近代化を支えた。

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最盛期には5000人以上が暮らし、世界一の人口密度を誇ったが島は、1974年に炭鉱が閉山すると無人島になった。人が去って29年の月日が流れた2003年、“軍艦島を世界遺産に”との思いが島民の間で生まれ、同年3月、「軍艦島を世界遺産にする会」が設立された。

「軍艦島を世界遺産にする会」が設立(2003年)
「軍艦島を世界遺産にする会」が設立(2003年)

端島の元島民など70人あまりが参加して開かれた設立総会では、元住民で団体の代表を務める坂本道徳さんが「島にはまだ生活のにおいがする。いま保存しなければ崩壊してしまう」と運動の必要性を訴えた。

「軍艦島を世界遺産にする会」代表 坂本道徳さん
「軍艦島を世界遺産にする会」代表 坂本道徳さん

軍艦島には炭鉱の操業とともに鉄筋コンクリートの炭鉱住宅が次々と建設されていて、当時、古い建物は歴史的建造物として研究の対象となっていた。「軍艦島を世界遺産にする会」では写真集の発刊や元住民への聞き取り調査など、世界遺産登録に向けた活動を始めた。

観光資源としての可能性

こうした世界遺産登録に向けた活動が始まった頃、島を「観光資源」として活用する動きも出始めていた。2003年に検討が進められたのが「公共の交通機関を使った海の観光周遊」だ。

軍艦島クルーズ船に乗り込む乗客(長崎港・2003年)
軍艦島クルーズ船に乗り込む乗客(長崎港・2003年)

長崎港を出港し、軍艦島を一回りして海の上から見学した後、西彼杵郡野母崎町(現在の長崎市野母崎町)に入港し、その後陸路で長崎市に戻るというルートだ。行政や交通機関、旅行業者の関係者が話し合いを進めたが、当時は一般の上陸が許可されておらず、軍艦島を間近に見るためには臨時の船便しか方法がなかった。

西彼杵野母崎町(現在の長崎市野母崎町)
西彼杵野母崎町(現在の長崎市野母崎町)

また海での周遊を終えた後に向かう野母崎地区の交通アクセスの改善や、名物となる食べ物の開発など、クリアすべき課題が多く、方向性がまとまらなかった。

2009年4月から一般の上陸が許可され、現在は長崎港周辺の各船会社が開催しているガイド付きツアーへの参加が必要だ。上陸ツアーが許可されている5つの船会社では午前便、午後便の1日2便で運航している。軍艦島への上陸の他、海から立ち入り禁止区域も見ることができる海上周遊や軍艦島にゆかりがある高島への上陸など、上陸以外の楽しみをプラスしたツアーも開催されている。

補修や整備に140億円の試算も

観光資源としての活用で模索が続けられる一方で、考えなければならなかったのが島の「保存」だった。

老朽化が進む軍艦島(2005年)
老朽化が進む軍艦島(2005年)

2005年6月、長崎市は「軍艦島保存活用検討委員会」を立ち上げ、有識者でつくる委員会は石炭の産業遺構、軍艦島の特徴的な外観を維持しようと話し合いを進めた。補修する建物や工法、工事費の概算などをとりまとめた報告書によると、当時およそ140億円かかると試算された。

委員会によると、護岸周辺や外観維持のための整備、歴史的建造物の整備など、軍艦島そのものと現存する建物のすべてを維持するために必要とされた。

軍艦島の保存に向けた動きは、元住民たちの心も揺さぶる。閉山の前年に高校を卒業するまで島で暮らした坂本道徳さんは、「市が保存という言葉を出してくれたのはうれしい。注目していきたい」と期待を寄せた。一方で、現地公開で案内役を務めた元住民の松尾和敏さんは、「来る度違う。あまり見せたくない。自然に朽ちてもいい」と複雑な思いを語る。変わりゆくふるさとの姿に、元住民たちの思いは交錯していた。(④に続く)

(テレビ長崎)

テレビ長崎
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