軍艦のような姿で知られる「端島(はしま)」。長崎市の通称「軍艦島」と呼ばれる島が閉山して2024年で50年が経過した。軍艦島のこれまでの歩みを振り返る企画の2回目は、閉山し島民が去った「最後の日」を取材した映像とともに当時を振り返る。
閉山式、800人が見守る最後の瞬間
「天寿を全うして閉山することになった」。1974年1月15日、長崎県の端島炭鉱、通称「軍艦島」で閉山式が行われた。84年の歴史を誇る炭鉱の幕引きの瞬間だった。
この記事の画像(9枚)従業員ら約800人が集まった閉山式ではまず、全員で事故などで亡くなった人々への黙祷が捧げられ、これまでの歴史への敬意と哀悼の意が表された。
三菱石炭鉱業の岩間社長は「我国有数の石炭を出炭してきた端島炭鉱もいわば天寿を全うして閉山することになった」と述べ、従業員の今後の発展を祈った。
従業員を代表して千住組合長は「石炭が見直される時期に閉山するのは皮肉な現象だ」と指摘しながらも「我々は輝かしい歴史と伝統をもった端島で働いた誇りを持ち新しい職場に向おう」と、未来への希望も語った。
海に眠るダイヤモンドでの得た栄光とエネルギー変換とともに訪れた衰退
端島炭鉱は1890年(明治23年)に操業を開始。以来、1500万トンもの原料炭を産出してきた。周囲1.2キロのコンクリートの島は、その形状から「軍艦島」として広く知られるようになった。
島の姿は、日本の近代化と産業革命の象徴とも言える。狭い島に、高層アパート、学校、病院、神社などが立ち並び、最盛期には5000人以上が暮らす、独特の共同体を形成していた。端島は良質の原料炭を産出する炭鉱として知られ、石炭から石油へのエネルギー政策の転換が進む中でも操業を続けてきた。しかし、鉱内条件の悪化などから、ついに閉山を避けられなくなった。
1973年9月、炭鉱労働組合は閉山に同意。多くの労働者たちは「来るものが来た」と口にしながらも、動揺を隠せない様子だった。ある初老の炭鉱マンは、「今更、新しい技術を覚えられる年でもなく、都会にいる息子の所で細々と暮らしたい」と、将来への不安を語っていた。
閉山への道のり 最後の卒業式も
閉山直前の1974年3月16日、端島小中学校で最後の卒業式が行われた。
珍しい春の雪が降る中、47人の卒業生たちが巣立っていった。
卒業生たちは「苦しい時も悲しい時も波しぶきの中で育ててくれた軍艦島を思い出し、新しい道を踏みしめていきます」と決意を述べた。もう二度と戻ることのない島を、彼らは寂しげに後にした。
そして1974年4月17日に住民登録された人はゼロとなり、20日には5000人もの人が暮らした島は無人となった。閉山からわずか3カ月後のことだった。
最後の定期船が出港すると、船は島の周りを一周したという。しかし、軍艦島から見送る人は誰もおらず、ただ船の汽笛だけがこだましていた。
無人となった島の静寂と再開発への道筋
閉山後、かつて島の唯一の娯楽施設だったパチンコ店は閑散とし、高層ビルの片隅で将来を案じ合う婦人たちの姿も見られなくなった。当時、端島の未来について、様々な議論が交わされていた。LPガスの基地や輸入肉の検疫地のほか、刑務所や一大歓楽街地などといった様々な活用案が出ていて、一年間は電気や水道、電話も維持して企業の進出に期待が集まっていた。
しかし、コンクリートで固められた島の再開発には多額の投資が必要となる。町は企業誘致のパンフレットを全国に配布したがその先の道筋は見えないまま、島は静寂に包まれていた。
(テレビ長崎)