軍艦のような姿で知られる「端島(はしま)」。長崎市の通称「軍艦島」と呼ばれる島が閉山して2024年で半世紀が経つ。軍艦島のこれまでの歩みを振り返る企画「端島「軍艦島」閉山50年」1回目は軍艦島閉山までの住民の暮らしを紹介する。人々の暮らしには多くの「日本一」と「驚き」が詰まっていた。
海上の要塞、軍艦島の栄光と興亡
軍艦島は長崎港から南西約19kmの洋上に浮かぶ無人島で、船で30~40分ほど向かった場所にある。周囲1.2kmの小さな島を取り囲むコンクリートの防波堤と、びっしりと立ち並ぶ高層アパート群。まるで海上に浮かぶ鉄の要塞のような光景は、いまなお、多くの人々の目を引きつけている。
この記事の画像(25枚)軍艦島の歴史は江戸時代にさかのぼる。江戸時代後期の1810年(文化7年)頃に質のよい石炭が発見され1890年(明治23年)に三菱合資会社が島の権利を買い取り、本格的な海底炭坑として開業した。炭鉱マンたちが働いていたのは海底約900メートルの場所だった。
場所が限られている島では石炭を掘るための能率の高い施設が作られ、最盛期は24時間3交代でフル操業し、毎日700トンの石炭を掘り出していた。最も多い時には5000人以上の人が住み、人口密度は当時の東京都の約20倍にも達し、世界一の人口密度だったと言われている。
驚きの「日本初」と「日本一」ラッシュ
この狭い島に多くの人が暮らすため、学校も住宅も高層建設にならざるを得なかった。
島の人々の住宅として建てられた高層鉄筋コンクリート造アパート「30号棟」は日本初の高層鉄筋コンクリート造で国内最古の高層RC造アパートでもある。
他にも軍艦島には多くの「日本初」がある。
0.06キロ平方メートルの狭い人工の島には緑はほとんどなかったため、島内には「日本初の屋上農園」が設けられ、住民たちはここで野菜を育てるなどして数少ない自然と触れ合っていた。他にも島には会社経営の病院や日本一高い6階建ての小学校もあった。
空き地などはなく、子供たちの遊び場はもっぱら屋上に限られていて、野球は打った球が海に落ちると2塁打だったという。
さらには軍艦島には住民の生活に必要な水の確保のため海底に水道管を作った。これが日本初の「海底水道」だ。
これにより住民は1日約1000トンの生活用水を確保できるようになった。
また軍艦島には「日本一」もあった。1960年当時、軍艦島では住民のほとんどの家庭に必ずと言っていいほどテレビがあった。今ではひとつの家庭に複数あるのが当たり前だが、当時の全国のテレビ普及率が10%ほどだったことから考えると、軍艦島のテレビ普及率は「日本一」だったと言えそうだ。鉱員の給料が高かったことなどが要因だが、テレビは島の人の家族で楽しめる唯一の「娯楽」だったのかもしれない。
住民はみな家族同然 未来を先取りした島の暮らし
四方を海に囲まれた軍艦島に住む人々は普段どのようにして暮らしていたのか。軍艦島での生活は当時からすると想像以上に「現代的」であった。
日用品は会社の厚生部経営の購買会や労働組合経営の売店があり、長崎や対岸の村から商人が来て店を出す青空市場が開かれ、生活必需品に困ることはなかったという。商人たちは多少の時化でも海を渡って新鮮な野菜を持ってきて島外の話題を持ってきてくれていたため、島の人にとっては商人との会話も楽しみの一つだったようだ。
大人は飲酒やパチンコ、島唯一の映画館で映画を楽しむなどしていた。島独自の祭りやイベントなども催され、住民たちは家族のように暮らしていた。しかし、エネルギー政策の転換により、80年以上続いた島の暮らしに終止符が打たれる日が近づいていた。(②に続く)
(テレビ長崎)