英国をなめてはいけない
(前編から続く)
O編集長から「ダイアナと友達になれ」という指令を受けてロンドンに飛び、英王室パパラッチグループに入れてもらった僕と小出アナは、毎日チャールズとダイアナを追いかけた。
そしてようやくチャールズ皇太子の短いインタビューに成功した。
英国には下見と合わせて3か月以上の滞在となった。当初食事はまずいと聞いていたが、意外に美味しかった。

ロンドンにはインド料理やイタリア料理のおいしいレストランがたくさんあったし、ローストビーフや、サンドイッチなど米国より美味しいものもいっぱいある。バスという町で食べたクロテッドクリームをたっぷり塗ったスコーンなど最高だった。

ただ1つだけとってもまずいものがあった。僕たちがパブメシと呼んでいた、パブで出てくる食べ物である。英国のパブは素晴らしい。どの町に行っても昼間からうまいエール(ぬるいが濃いので冷えたラガーより美味)が飲める。ただ食べ物はダメ。酢につけたゆで卵とか、内臓の煮込みが入ったパイとか。
その中でも僕が人生で一番まずい!と思ったパブメシは、フィッシャーマンズサラダというやつだった。海に近い町のパブのランチで食べたのだが、「漁師風サラダか、うまそうだな」と思って無防備に頼んだが、ニシンのような魚を長時間茹でたものが刻んだキャベツなどの上に乗っていて、本当に一口しか食べられなかった。
英国をなめてはいけない、と思った。

英国王室はパパラッチとも懇談する
一度オーストリアのウイーンに2人が出張したので我々もついていった。国立劇場でガラコンサートがあるという。同行記者団も招待された。
欧州はドレスコードが厳しくて、男はタキシード、女はドレスを着ないといけない。
O編集長に電話すると、「お前は適当にタキシードを借りろ。小出は着物だ!日本から送るから着付けを探せ!」と言う。
確かに大男、大女に混じって、ジャパニーズガールの着物姿は絵になる。ウイーンで着付けをしてくれる日本人のおばさんを探し、当日は2人でめかしこんでコンサートに出かけた。
パパラッチグループの人達からは喝さいを受けたが、送ったVTRを見たO編集長には、「デカイやつらに囲まれると七五三みたいだな」と言われた。
その翌日、皇太子夫妻と記者団の懇談があるという。日本でも首相が外遊すると、同行記者と懇談する。あれと同じだが、パパラッチと懇談するとは英王室は腹が座っている。

当日、緊張してワインを飲みながら煙草を吸っていると(当時僕は喫煙者であった)、顔見知りの英国人記者が来て、「煙草を消した方がいいよ」と言う。英国人は煙草好きが多いので油断していたのだが、チャールズが大のたばこ嫌いだという。慌てて消して2人を待った。
近くで改めて見ると、意外に大きくない。
2人はほぼ同じ身長で178センチだった。
173センチの僕とそんなに変わらない。
順番に記者とあいさつを交わす。
そして僕らの前に来た。
ダイアナの肌は真っ白と言うより透き通って透明に見えた。
こんな肌の人がいるんだ。
でも綺麗だった。
驚くほど冷たかったダイアナ妃の手
こんなにも美しい人がいるのか、と見とれた。
ただ、美しいが、幸せそうには見えなかった。
日本風に言うと幸(さち)薄そうに見えた。
お会いできて光栄です、と言うと、
私もうれしい、と通り一遍の答えが返ってきて、握手をした。びっくりするくらい冷たかった。とても弱々しく僕の手を握ると彼女は次の記者の所へ行った。
それが僕とダイアナ妃との最初で最後の接触である。
4月29日、皇太子ご夫妻はカナダ、日本訪問の旅に出発し、我々も同行した。
やっと日本に帰れるのだ。

しかし僕はカナダのバンクーバーでとんでもない失敗をしてしまった。
ある夜、雑誌「マジェスティ」のイングリッドと、タブロイド紙のある記者と夕飯を食べた。
その記者は何度かアドバイスをくれたり、優しくしてくれたりして、僕はかなり心を許していた。
この英国取材の前、フジテレビはダイアナ妃の両親を日本に呼んだ。
旅行社とタイアップして、ダイアナ妃の故郷へのツアーを募集するという企画だった。僕もそれに関わっていたので、両親と箱根に行ったりした。
「ダイアナ妃の意地悪なまま母が・・・」
その時、旅行社の人から面白い話を聞いた。
ダイアナ妃の両親は日本旅行にすっかり疲れ、ある日、ホテルで夕食を取る際に、「イングリッシュブレックファーストが食べたい」とわがままを言った。
ホテルの人が「夜なので朝食は出せません」と言ったのに、どうしても朝食のメニューが食べたい、と言い張り、根負けしたホテル側が夜なのに朝食メニューを出した、という、まあなんてことない話だ。

僕はこの話をタブロイド紙の記者についしゃべってしまった。オフレコもかけずに。
翌日のタブロイド紙の一面トップに「ダイアナの意地悪なまま母がホテルでわがまま放題」という見出しが躍った。記事にはご丁寧に、「フジテレビのプロデューサー、フミオ・ヒライ氏によると」と書いてある。
これを共同通信が転電し、翌日の日本のスポーツ紙にも大きく出た。共同が武士の情けか、僕の名前を出さなかったのは不幸中の幸いだった。だがダイアナの両親は激怒して、ツアーは中止になってしまった。フジテレビ本社は大騒ぎになった。

そんなことは知らない僕はカナダから日本に到着し、特番当日を迎えたのだが、O編集長の上司の役員からこっぴどく叱られた。局長会でも問題になったという。クビになるかとドキドキして、O編集長に電話したら、「まあクビにはならんだろ」と冷たい一言だった。
来日歓迎花火を打ち上げ

特番の放送時、ダイアナ妃は京都の料亭にいたので、僕と小出さんは料亭の前から中継で出演した。
ダイアナ妃とご飯を食べた安倍晋太郎外相に、歓迎花火を上げるからダイアナと一緒にテレビを見てと、頼んでおいたので、安倍外相は料亭の部屋にテレビを入れてくれ、ダイアナと一緒にわが社の歓迎花火を見てくれた。

翌日視聴率を聞いてびっくりした。
なんと28%だった。
あさま山荘事件や、オウムなど、ストレートニュースの発生で作った報道特番の視聴率はもっといい。でも作りこんだ報道の特番で28%というのは初めてで、いまだにその記録は破られていないらしい。
ツアーの件で怒られた役員が来て、ニヤニヤしながら「話題を取って盛り上げて、視聴率上げるためにタブロイド紙にリークしたんでしょ。悪党だね」と言う。
「違います」と必死に否定したが、以後、その役員は僕のことをずっと「悪党の平井」と呼んでいた。
ダイアナ特番は大成功だった。
ダイアナは2人の王子を産んでいたが、その頃チャールズとの仲はすでに事実上破綻しており、92年には別居、死の1年前の96年には正式に離婚した。
棺の後ろを歩く息子たち

そして1997年9月6日。
ウエストミンスター寺院でダイアナ元妃の葬儀が行われた。

12歳のハリー王子が棺の後を歩く姿に涙が出た。
さよならダイアナ。

36年の短い人生は幸せだったのだろうか。
生涯のほぼ半分の時間、パパラッチに追いかけまわされ、最後はパパラッチに殺された。
僕だってパパラッチの一人だ。
あの幸(さち)薄そうな顔を今も思い出す。

【解説:フジテレビ 解説委員 平井文夫】
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