突然の死

平成9年(1997年)8月31日の事はよく覚えている。僕は『ニュースJAPAN』という番組のプロデューサーになったばかりの37歳。その日は、たまの休みに友達3人と昼間から家でワインを飲んでいた。
つけていたテレビに、「ダイアナ元妃が交通事故死」というニュース速報が出た。パパラッチに追いかけられ、猛スピードを出した車が中央分離帯に正面衝突したのだ。エジプト人のボーイフレンドと運転手は即死、ダイアナ元妃は病院に運ばれたが、意識は戻ることなく亡くなった。

ダイアナさん、死んだのか。その後は何だかワインも進まず、会は早々にお開きにしてもらった。夜になって、ダイアナ妃に会った時のことを思い出してしんみりした。
実物のダイアナさんは透けるような白い肌で、VTRや写真で見るよりはるかに美しく、しかし握手した手はとても冷たかった。
「Nice to meet you.(会えて嬉しいです)」とだけ言った声はか細かった。
この人、幸(さち)薄そうだなあと思ったことを覚えている。10年も前のことだ。
ダイアナ妃特番取材で英国へ

1986年だから、まだ昭和61年の1月。当時の僕は夕方のニュース「スーパータイム」のディレクターで、27歳だった。遅い正月休みが明けて出社すると、編集長のOさんが「平井ちゃん、ダイアナ密着しに英国に行って。すぐに!」と言う。
チャールズ、ダイアナ夫妻が5月に来日することが決まり、それに合わせて特別番組を作ることになったらしい。番組の柱は2つで、花火を打ち上げてダイアナ妃に見てもらう、というのと、2か月密着してダイアナ妃とお友達になり、一言でいいからカメラにしゃべってもらう、という報道局制作にしてはふざけた企画である。
で、その2つ目のお友達になるというのを、お前やれ、というのだ。カメラにしゃべる、いわゆる「音をとる」のはチャールズでもOK、だという。無茶な話だが、とにかく英国に下見に行くことにした。

日本では皇室の取材は宮内庁記者クラブが仕切る。主要テレビ、新聞、通信各社が加盟し、1人か2人の常駐記者がいる。英国ではどうなっているのだろうか。まずそれを調べた。
なんとバッキンガム宮殿にはそういう記者クラブはなかった。ただし、タブロイド新聞やテレビ、雑誌を中心に作った、皇室取材のグループはあった。バッキンガムに対しても一緒に交渉しているという。ま、簡単に言うと英王室パパラッチのグループですね。
そのグループのリーダー格で、皇室雑誌「マジェスティ」編集長のイングリッドという女性に会い、「僕もそのグループに入れてくれない?」と試しに頼んでみたら、「いいわよ」と言う。こうして僕はパパラッチの一員になった。
ある日、BBCテレビのプロデューサーと食事をしている時に、「密着取材して、チャールズかダイアナに一言でもしゃべってもらうには、どうしたらいいだろうか」と相談したら、「ハンディカメラで撮ればいいじゃないか」とあっさり言われびっくりした。
目からウロコの“英国風”取材方法

厳密に言うとこれは取材ルール違反である。バッキンガムが取材設定をする時は、王室への「声かけ」はしてはいけないのだ。ただ一般の人達は気軽に声をかけ、王族も応じる。確かにハンディカメラなら一般の人と区別がつかない。
目からうろこだったのは、今でこそテレビ局がデジカメ映像を使うのは当たり前だが、当時はまだハンディカメラの性能もあまりよくなく、放送で使うことなど誰も考えていなかったからだ。
これは面白いかもと思い、帰国後、撮影部長に聞いてみた。
反対されるかと思ったが、「音はもうずいぶんよくなっているから大丈夫。映像は粗いけど、まあハンディと断ればいいんじゃないか」とあっさりOKが出て、ハンディカメラを1台貸してくれた。
放送は2人が来日中の5月9日の金曜日のゴールデンタイムと決まった。密着はその前の40日間。番組名は「花火で歓迎ダイアナ妃。密着40日もうお友達」。すごいタイトルだ。もしお友達になれなかったらどうすればいいのだろうか。
僕がディレクターで、リポーターは当初アナウンサーのNさんに内定していた。しかし僕が昼のニュースのキャスターをしていた小出美奈さんの方がいいと言い張り、小出さんに差し替わった。2人とも英語は堪能なのだが、英王室取材には小出さんのようなサッパリとした顔の方が合う、と直感的に思ったのだ。
ロンドンに着くと面白い話が待っていた。支局の助手スーが、自分のアパートの隣の部屋を僕と小出さんに40日間借りないかという。そのアパートはスーと一緒に住む妹の男友達がその友達と住んでいるのだが、40日間僕たちに貸して小遣い稼ぎをしようというのだ。今で言う民泊だが、30年前から欧米ではこういうのはよくあった。
その間、妹の男友達は妹の部屋に泊まり、もう一人の友達は自分の女友達の部屋に泊まるらしい。一つ一つの部屋が広いからできることだ。そのアパートは広い寝室が2つ、リビング、キッチン、バスルームがついており、120平米くらいあったろうか。シーツや備品交換なども全部やってくれる、というのであまり細かいことも考えず、お世話になることにした。
ホテルに泊まるよりはるかに安く、居住性が断然いいからだ。
よく考えてみると、寝室に鍵がかかるとは言え、バスルームは共同で、27歳独身の男女が40日間一緒に暮らすのである。何かあったらどうするのか。
ただ僕と小出さんは同期入社で、そういうことは全く意識しなかった。同期というのは不思議な関係で、ある日突然学生気分のまま同じ会社に入る。一緒に研修を受けたりしながら徐々に成長していく。同じ釜の飯を食った戦友、のようなノリで、酔って誰かのアパートで雑魚寝することもよくあった。

2人で暮らしながら、密着取材の準備をしていたある日の早朝、アパートの電話が鳴った。小出さんの方が起きて、「はーい」と出たら、東京のO編集長だった。Oさんは驚いたらしい。僕の部屋に電話したはずなのに、小出さんが出たのだ。
恐る恐る「平井いる?」と聞いたら、「ちょっと待ってくださーい」と言われた後、パタパタとスリッパの音がし、「平井くーん、Oさんから電話よー」という声の後、僕が「もしもし」と出た。
Oさんは「お前ら、どうなってんだ」と言う。声が裏返っていた。はじめ何のことかわからなかったが、Oさんの深刻な裏声にようやく気付き、「実はかくかくしかじか」と説明したのだが、信じてもらえなかった。世代間ギャップだろうか。不思議なことに小出さんとは一度だけ言い合いをしたが、けんかもせず、といって変なことにもならず、無事帰国した。
彼女はその後アナウンサーをやめて米国に渡り、証券アナリストになった。米国人男性と結婚し、今は経済評論家として活躍している。
ダイアナ夫妻を追って
翌日から小出さん、ハンディカメラを持った僕、普通のカメラを持った英国人カメラマンとビデオエンジニア、ドライバーの日英連合撮影チームは、チャールズ、ダイアナ夫妻を追いかけて英国中を旅した。

カーディフ、シェフィールド、ポーツマス、ベイジングストーク、ブリストル、ランカシャー、カナボーン。
どこへ行っても2人は大人気だった。
日本ではダイアナ妃の人気がすごかったのだが、実は英国ではチャールズ皇太子の方が人気があり、地元ウエールズのカーディフという町では、州の花である黄色水仙を手にしたおばちゃんたちが、「チャーリー!」と黄色い歓声を上げていたのがかわいかった。
連日追っかけたが、ダイアナとチャールズの「音」はなかなか撮れない。

ランカシャーに行った時だった。
皇太子夫妻が通る導線と、我々の場所がとても近い所があった。もしやと思ったら、ふっと夫妻が我々のカメラの前に立った。今だ!
小出さんがすかさず「日本に来られますね。日本国民はみな楽しみにしてますよ」と言うと、チャールズ皇太子は「僕たちもとても楽しみにしています。日本は素晴らしい国だそうですね」としゃべってくれた。
バッキンガムの人が怒ってやめさせるまでの間、3分位だったろうか。
残念ながらダイアナ妃は横で下を向いていたが、それでも大スクープだ。
チャールズ皇太子が初めて日本のメディアにしゃべったのだから。
息せき切って東京のO編集長に電話して叩き起こし、「チャールズの音取ったよ!」と言ったら、「ウオー」と叫んでいた。
「よくやった。帰って来い!」
彼はいつも「すぐに行け!」と急かし、用事が終わると「すぐに帰って来い」と言うのである。
英王室パパラッチのすごさ

ところで我々を優しく受け入れてくれた英王室パパラッチグループというのはとんでもない連中だった。英国のタブロイド新聞には必ず腕利きの皇室記者がおり、激しいスクープ合戦を繰り広げている。デイリーメール、デイリーエクスプレスなど、よく日本の夕刊フジや東スポなどと比較されるが、記事の信頼性はともかく、部数や影響力は日本とはけた違いなのだ。
また欧州のスチールのカメラマン達は、過激、どう猛なことで有名で、ダイアナ元妃を死に追い込んだのも彼らである。
強烈な個性を持つ人たちでやや怖かったが、こっちも何とかして王室のインナーサークルに入りたいので、食事をしたりして少しずつ仲良くなった。
しかしそれがその後、とんでもないトラブルを引き起こすことになる。
(後編に続く)。
【解説:フジテレビ 解説委員 平井文夫】
【関連記事:「平成プロファイル~忘れられない取材~」すべての記事を読む】
