太平洋戦争末期の1944年、学童疎開の引率教師として対馬丸に乗船した糸数裕子さんは、一緒に乗った教え子を全員亡くし、自責の念を抱えながらも生涯、自身の体験を語り続けた。

対馬丸の悲劇から80年。平和を繋いできた想いは、子や孫たちに受け継がれている。

生き残った苦しみを抱き続けて

糸数裕子さん(2014年):
よく生きて帰ってきたねと。だけど沖縄の戦はもっとひどかったんだよと。それをあなたは引率で行って生徒は死んだ。自分は生きていますということを人に言ってはいかんと。生徒を死なせたのにという気持ちをいつまでも持っておけと

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対馬丸事件の生存者だった糸数裕子さん(享年97)
生き残ってしまった苦しみを抱き続けていた。

80年前、那覇国民学校の新任教師だった裕子さん(当時19歳)は、学童疎開の引率教師として
宮崎へ向かうこととなり、受け持つ子どもたちとともに対馬丸に乗り込んだ。

しかし、那覇港を出港した翌日の夜。アメリカ軍の潜水艦の魚雷が対馬丸に命中。

その直後の悲惨な状況を語った裕子さんの証言が残されている。

糸数裕子さん:
「船やられたよ、起きなさい」と言って。そこにいる生徒をつかまえて
船底をのぞいたら、異様な音、水がダーッと流れる音、それからにおい。
みんなが「お父さん、お母さん、先生」と呼ぶんですよね。「夜が明けるまでがんばれよ」とそれをひっきりなしに言って

いかだの上で丸2日漂流した裕子さんは、偶然近くを通りかかった漁船に救助され九死に一生を得たが、一緒に乗船した教え子たちと再び会うことは無かった。

糸数裕子さん:
かん口令というのがあったわけですよ。余計なことは言うなと

33年の歳月が流れての決意

裕子さんは戦後、沖縄に帰ってからも自身の体験を公にしなかった。

裕子さんの娘 福原保子さん:
私たちには子どもの頃からよく話していたんですけど、外部に向かって語り掛けることは一切なかった。大城立裕さんという作家さんがいらっしゃって、その方が、対馬丸事件の本を出したんです。それを読んで、”歴史とはこういう風に残していくんだ“って悟ったときから、母は語ることを断らないことを決めた

「対馬丸の悲劇を語り継がなければならない」裕子さんがそう決意し、生存者として名乗り出たときには対馬丸事件、そして、教え子たちの死から33年の歳月が流れていた。

海に沈んだまま帰って来ることのなかった遺骨や遺品に代わって、裕子さんの証言は事件を知る
貴重なものとなった。

80年前に何があったのか知りたい

裕子さんと同じように教師の道に進んだ孫の眞榮城茜さんは、年々、祖母の証言の重みを感じている。

裕子さんの孫 眞榮城茜さん:
おばあちゃんは、連れて行った子どもをみんな失って帰ってきたんだ。同じ教員になったときに、自分の教え子たちを連れてこういうことになってしまったというおばあちゃんの気持ちがだんだん分かってきて

ひ孫の眞榮城百恵さんは、裕子さんから直接体験を聞ける機会は少なかったと話す。80年前の出来事を知りたいと2023年、ある研修に参加していた。

対馬丸記念会が企画した「学童疎開体験事業」は、沖縄県内の小学5・6年生10人が参加。
この研修に百恵さんの姿があった。

裕子さんのひ孫 眞榮城百恵さん:
もっと詳しくおばあちゃんのことを聞く前に亡くなってしまったので、その分も勉強しておいでねと言われてきました

この研修を通して、百恵さんは裕子さんが終戦まで身を寄せていた宮崎を訪れた。

裕子さんが疎開生活を送った場所で80年前の貧しさや苦労の日々、そして、心の痛みに触れた百恵さんは、これからも学び続け、裕子さんの体験を発信していきたいという想いを強くしていた。

裕子さんのひ孫 眞榮城百恵さん:
今では考えられないことがたくさんあって、改めて戦争って怖いと思いました。疎開が起きる戦争を起こしてはならないことを、次世代につないでいきたいです

記憶は沈むことなく次の世代へ

対馬丸事件から80年を迎えた2024年8月22日。小桜の塔で慰霊祭が執り行われ眞榮城茜さんや、百恵さんの姿もあった。

裕子さんの孫 眞榮城茜さん:
80年前のことに思いを馳せると、今こうして私たちが生きて、私は子どもたちと一緒に参列することができて感慨深い

裕子さんのひ孫 眞榮城百恵さん:
こんなにたくさんの人が平和を願っているんだなと思いました。焼香台にあるレース編みが、ひいおばあちゃんが作ったそうなので、ちょっと誇らしいなと思います

茜さんと百恵さんは犠牲者を追悼し、対馬丸事件を風化させず語り次いでいくと決意を新たにしていた。

(沖縄テレビ)

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