疎開船「対馬丸」がアメリカ潜水艦の攻撃を受けて撃沈してから2024年8月22日で80年となる。対馬丸の悲劇を風化させず次世代に語り継ぐ平和学習が企画され、沖縄県の子どもたちが、多くの犠牲者や生存者が流れ着いた奄美大島を訪れるとともに、当時の学童疎開を追体験した。
生存者が残した手記
2024年8月13日、対馬丸の犠牲者の慰霊碑が建立されている奄美大島の宇検村に向かうため、15人の小学生たちが那覇港から船で出港した。
この記事の画像(13枚)船に乗ってから早速、生存者の手記を読み、当時の子どもたちに何が起きたのか学んだ。
手記は母や妹・弟、それに友人を亡くした當眞秀夫さん(当時14歳)が記したものだ。
當眞秀夫さん手記:
魚雷の破片で左足に重傷を負ったが、痛さなどを感じる余裕もなかった。
一緒に乗船した母と妹・弟3人は船とともに海底へ消えた。
當眞さんは対馬丸が沈んだ後、ほかの5人と一緒にいかだに捕まったが、宇検村に流れ着いた頃には1人になっていた。
當眞秀夫さん手記:
奄美大島の南西部宇検村にあるフノシ海岸に流れ着いた。
安心したせいか気を失ったが間もなく宇検村の漁師3人に救助される。
愛する家族を亡くした少年を残酷な現実が襲う。
當眞秀夫さん手記:
目の前で死んだ友人の母親と妹に会ったが一切何も話せなかった。
小学生の会話:
きついよね自分だけ生き残るのなんか感覚が変になりそう。自分だけが生き残っていたら
対馬丸が沈没した海域付近では海上慰霊祭が執り行われた。
池宮城陽道さん:
沈んだ時間は夜の10時だと考えるととても暗くて怖かったと思います。
僕は悲惨な事件の全てを知りません。
それでも、少しでも多くのことを知り二度と戦争が起きず平和な世界を作れるように行動していきます
対馬丸の悲劇を後世に残す慰霊碑
奄美大島に到着し一行が向かったのは慰霊碑が建立されている宇検村。
宇検村のフノシ海岸には対馬丸が沈没した後多くの遺体が漂着し、村民たちが遺体を埋葬し
生存者を介護した。
話を聞かせてくれたのは元村長の元田信有さん。
元宇検村長 元田信有さん:
語り部がいなくなるのにこのままだと対馬丸のことも忘れ去られるだろうと。
地元の人も分からない人も多いので、何か形を作って次にそれを忘れないために平和教育に生かすためにはは慰霊碑という一つの形があってもいいのではないか
その日の夜、児童たちは対馬丸の遺族にも話を聞いた。
守田アキさん(90歳)は、兄の秀雄さんが対馬丸で犠牲となった。
兄の訃報を知った母の様子は今も脳裏に焼き付いているといいます。
森田アキさん(90歳):
それはショックでしたまさかとは思うよね。船は沈んだことは分かっていたけど(兄は)助かって他の港についてそこにいると思った。
(母は突然)タバコを吸ってね。濡れて寒いから母ちゃん寒い寒いという夢ばかり
母ちゃんは見ていた
プログラムを通して児童たちが感じた事
沖縄に戻った子ども達、奄美大島訪問で感じたことを互いに共有した。
備瀬真子さん:
夜甲板に出るととても暗くて怖くて、もう中に入ろうとしました。
だけど私より小さい子もこのような体験をしたということを心に留めて頑張りました。
平結羽さん:
フノシ浜に行ったときは今ではこんなに綺麗な海なのに、昔は人の死体や驚くことがたくさんあって私はとてもびっくりしました。
知念由依さん:
姉二人とお母さんの夢の中にずぶぬれになった秀雄さんがいたそうです。
多分秀雄さんは自分は海の底にいるよと教えていたんじゃないかと思いました。
池宮城陽道さん:
同じ人間同士で殺し合うなんて本当に恐ろしいと思います。
国同士の喧嘩に国民を巻き込むのはおかしいし、巻き込んだ政治家は本当にやばいし国民の命を軽く見ているなと思いました。
知念由依さん:
私はいまより家族を大切にして家族と過ごす日常や思い出を大事にしていきたいと思います。
備瀬美子さんは慰霊碑の建立に奔走した元宇検村長の元田さんの言葉を噛みしめていた。
備瀬美子さん:
元田さんは慰霊碑を建ててくれた人です。
元田さんの言葉で「目から消えるものは心から消える」というのが、「目から見えないものは忘れる」とこの言葉が印象に残りました。
対馬丸沈没から80年。
記憶が記録となるなか、再び悲劇を繰り返さないという思いは次の世代へと引き継がれていく。
(沖縄テレビ)