普天間基地に隣接する沖縄国際大学に、アメリカ軍のヘリが墜落して2024年8月13日で20年となる。

このほど、当時の市の幹部が事故の発生時にどのような対応を取ったのか時系列にまとめた資料を公表した。当時の緊迫した現場とともに、日米地位協定の不条理も浮かび上がった。

前代未聞の事故 大学に米軍ヘリ墜落 

宜野湾市の元基地政策部長・比嘉博さんは、沖縄国際大学にアメリカ軍のCH53ヘリコプターが墜落する事故が発生した現場に基地担当部署の責任者として現場に駆け付けた。

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比嘉博さん:
市長車が着いたのが時間的には午後2時時50分くらい 鎮火したのが午後3時10分前後

大学にアメリカ軍ヘリが墜落するという前代未聞の事故。時々刻々と代わる当時の現場の状況を、比嘉さんは細かくまとめていた。

比嘉博さん:
資料として残そうと思って(事故から)20年後なので、当時の基地政策部長の責任で時間も含めて出そうと

墜落事故が起きた日、宜野湾市は、当時の伊波洋一市長(現・参議)の訪米行動に関する市民報告会を開いていた。

比嘉博さん:
訪米の報告会これが8月13日午後2時から。(報告会の途中で)市の職員から市長の方に耳打ちがあって、沖国大にヘリが落ちたみたいだぞという話が飛び込んで来た

皮肉にも事故の第一報は、普天間基地の返還に向けて市の活動を説明している最中に入って来た。

事故の発生から約30分後に市長と共に比嘉さんは大学に到着した。現場では、宜野湾市消防と米軍の消防による消火活動が行われていた。

比嘉博さん:
市長も私も1号館の事務所内には入れました。もう悲惨な状況でしたね。大学の方々に被害が出なかったというのは本当にあれだけの状況からすると考えられないくらいの事故でした

アメリカ軍の事故報告書では整備不良によりその結果、機体が制御を失って墜落したとしている。

比嘉博さん:
午後3時過ぎぐらいから米軍の規制が始まって、最初に消防も出されて当然行政の我々も出されて。挙句の果てに県警まで排除される流れを見て、現場では市長以下それから大学の学長たちみんな米軍に対して抗議するわけです

日米地位協定を根拠に現場を封鎖

当時、市長として現場を訪れた伊波洋一さんは、アメリカ軍が民間地であるはずの大学周辺を
封鎖する光景を目の当たりにしていた。

元宜野湾市長・伊波洋一さん:
消防からは自分達(米軍)が消火したので追い出されようとしていると。全部立ち入り禁止になったんですよ、本館を取り囲んでこのエリアが入れなくなってしまう

アメリカ軍は、日米地位協定の合意議事録に基づく「軍の財産を捜索 差し押さえ検証を行う権利を行使しない」という文言を根拠に警察や消防、そして、大学関係者を排除して現場を封鎖。

まるで、占領統治下のような異様な光景に、市や大学関係者そして、市民が激しく抗議した。

比嘉博さん:
行政として、あるいは大学として意思表明すべきだという事になりまして、急遽、我々と大学合同記者会見を実施する。メモを見ると午後5時45分

沖縄国際大学学長 渡久地朝明学長(当時):
もしこれがセメスター(学期)の真ん中であったらこれはぞっとしますよ。大惨事が起きていたと私は思いますね

伊波洋一宜野湾市長(当時):
この種の事故におきまして米軍側が全体をコントロールしている状況だったので、私は市長として米軍の責任者に対し、この調査における調査権は沖縄の警察と宜野湾消防署にあると

しかし、アメリカ軍は警察や消防の調査に協力することなく機体が運び出されるまでの間、現場を封鎖し続けた。

伊波洋一さん:
最後に片づけるまでもずっと1週間以上、東京から閣僚クラスや次官クラスが来ても局長クラスが来ても入れなかったんですよ

比嘉博さん:
やっぱり現場にいると本当にここは日本国内なのというのが実感でしたね

墜落事故後も県内では、名護市安部にアメリカ軍のオスプレイが墜落し、東村では、民間地にヘリが墜落炎上する事故が発生した。

さらに、宜野湾市では普天間第二小学校のグラウンドにヘリの窓が落下するなど危険性は放置されたままで事故の教訓は活かされていない。

比嘉博さん:
当時のあれだけの事故を起こして、尚且つ事故に対する県民、国民の命を守るような視点での体制になっていない状況。これがその後もずっと続いていますよね、(事故の)当事者として反省であり課題をずっと抱えているんだなという思いですね

事故から20年。かつて行政の立場で市民の安全な暮らしを守ると奔走した比嘉さんは、未だに繰り返されるアメリカ軍の航空機事故に今も苦悩している。

(沖縄テレビ)

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