雲仙普賢岳の噴火から30年以上が経過した。あの災害は、多くの人々の人生を変え、地域に深い傷跡を残した。しかし、その後の復興の歩みは、人々の強さと希望を示す物語でもある。今回は、被災地の緑の復興に尽力した一人の庭師の物語を通じて、雲仙普賢岳噴火災害とその後の歩みを振り返る。
”平成の大噴火” 雲仙普賢岳噴火災害
1990年11月、198年ぶりに雲仙普賢岳が噴火を開始した。この「平成の大噴火」は、1996年6月まで続き、甚大な被害をもたらした。死者41人・行方不明者3人・負傷者12人・建物被害2511件・被害額は2300億円に上る。1991年6月3日に発生した大火砕流は、時速100km以上の速度で5.5kmもの距離を流下し、多くの犠牲者を出す結果となった。
この噴火により形成された溶岩ドーム「平成新山」は、現在も普賢岳より138m高い1488mの標高を誇っている。噴火の規模の大きさを物語るこの数字は、災害の記憶を後世に伝える象徴となっている。
「緑の復興を」 庭師・宮本さんの活動
雲仙市瑞穂町の庭師・宮本秀利さんは、この大災害をきっかけに、被災地の復興に人生を捧げることになる。消防団員だった友人2人を火砕流で失った宮本さんは、災害発生からわずか2日後に「普賢岳災害ボランティア」を立ち上げた。
この記事の画像(9枚)「災害におのれは置きて奔走す 友うしなひし大火砕流」 作:前田泰隆さん 同人誌「海港」より
この短歌は、宮本さんの行動を詠んだものだ。雲仙市瑞穂町出身の元教師・前田泰隆さんは巻頭に「真清水の響き」と題し宮本さんの人生を20首で描き出した。
前田泰隆さん(67):宮本さんは故郷を思う気持ちがとても強い人だった。人に寄り添ったり自然に寄り添ったりしながら、愛情の広い大きな郷土の先輩
宮本さんは、被災地に緑を取り戻すことを目標に掲げた。雲仙に自生する樹木から種を取り、苗木を育てる活動を始めたのだ。この取り組みは次第に広がり、島原半島の高校3年生による卒業前の恒例行事「百年の森」植樹へと発展していった。
「三万本余りを植えし雲仙の『百年の森』今あおあおと」作:前田泰隆さん 同人誌「海港」より
この短歌は、宮本さんたちの活動が実を結び、被災地に緑が戻りつつある様子を表現している。
受け継がれる遺志
宮本さんは2022年7月、72歳でこの世を去った。
しかし、彼の遺志は多くの人々に受け継がれている。火砕流発生から30年の節目となる2021年、宮本さんは病を押して「定点」周辺の整備作業に取り組んだ。その場所には現在「いのり」と「感謝」を刻んだモニュメントが建立されている。
「火砕流三十年に建立す『いのり』と『感謝』の定点遺構」作:前田泰隆さん 同人誌「海港」より
これは宮本さんの最後の仕事となった場所を詠んでいる。彼の人柄は「真清水のひびきのような去私の人」と表現され、多くの人々に影響を与え続けている。
宮本さんの死去から2年、三回忌を迎えるのを前に、前田さんは仏前に本をそなえ、改めて宮本さんに感謝の思いをあらわした。
雲仙普賢岳噴火災害からの復興は、砂防・治山対策、災害対策基金による支援、新たな復興計画の策定など、多岐にわたる取り組みによって進められてきた。しかし、真の復興は、宮本さんのような地域の人々の努力と献身によって実現されてきたのだ。
今も続く復興の歩みは、災害の記憶を風化させることなく、次世代へと引き継ぐ重要な役割を果たしている。雲仙普賢岳の噴火は悲劇であったが、そこから生まれた人々の絆と復興への思いは、未来への希望の光となっている。
宮本秀利さんの物語は、災害を乗り越え、よりよい未来を築こうとする人々の姿を映し出している。彼の遺志は、今も多くの人々の心に生き続け、雲仙の地に根付いた緑とともに、力強く成長を続けているのである。
(テレビ長崎)