食の雑誌「dancyu」元編集長/発行人・植野広生さんが求め続ける、ずっと食べ続けたい“日本一ふつうで美味しい”レシピ。

植野さんが紹介するのは「炒り豆腐」。亀有にある惣菜店「越後屋」を訪れ、食卓のおかずとしてはもちろん、お酒のつまみやお弁当にもぴったりな和風のお総菜を紹介。

下町に店をかまえて74年、実家の越後屋と共に人生を歩んできた女将の人生にも迫る。

亀有にある家族経営の惣菜店

「越後屋」があるのは、東京、亀有。JR常磐線が乗り入れ、都心からは約30分。

かつて駅周辺は、田畑が広がる農村地帯だったが、昭和のはじめごろから都市化が急速に進んだ街だ。

「亀有と言えば“こち亀”ですよ。“こち亀”のキャラクターの像が15体くらいあるようです。亀有はもともと“亀無”と呼ばれていたみたいですが、無いのが縁起が悪いので、江戸時代初期に“亀有”に変えちゃったみたいです」と植野さん。

さらに、「そんな亀有ですが、人情味溢れる下町の良いところです。昔からやっている、家族経営の素敵なお惣菜屋さんに行ってみたいと思います」と話し、お店へ向かった。

79歳、2代目が中心の昔懐かしい店

亀有駅から宮前通りを歩いて約2分。複合施設の1階に店を構えるのが「越後屋」だ。

朝9時半から準備が始まり、約1時間かけて営業スタイルに。暑い夏は、準備だけで汗だくになってしまう。

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「越後屋」の開店は1950年。

店頭には手作り総菜や乾物、漬物などが所狭しと並び、昔懐かしい雰囲気に思わず足が止まる。

この「越後屋」の2代目店主が三条靖子さん。今年、79歳でまだまだ現役だ。

そして、漬物を並べるのは、夫の一夫さん。さらに、3代目の次女・真知子さんと、店の奥にある厨房で、娘婿の崇さんがお総菜作りを担当している。下町の温かみを感じる家族経営の店なのだ。

2代目の時に惣菜店として再スタート

戦後まもない1950年に開店した「越後屋」。

初代は、靖子さんの父・徳市さんで、植野さんが「お父さんはもともと何か商売をやっていたんですか?」と尋ねると、靖子さんは「父親は新潟で呉服屋をやっていた。遊び過ぎて店を取られちゃって、東京に出て来た。知り合いの伝手で亀有に来て、戦後で物がないので食料品総合をやっていた」と語った。

戦後間もない頃の「越後屋」は総合食品店だった
戦後間もない頃の「越後屋」は総合食品店だった

総合食品店としてスタートしたため、当初、お総菜は「うずら豆」や「にしん煮」を売る程度だった。

当時、店は駅前にあり立地も好条件だったが、都市開発が進みスーパーなど大型店舗の進出で、徐々に経営が悪化してしまう。 

そんな苦しい中、1968年に店を継いだ靖子さんは「最近、働きに出る女性が増えてきたなあ…」「そうだ!駅前で総菜を売れば、仕事帰りに買って帰るかも!」と思い付く。

そこで、調理師免許を持っていた姉にも手伝ってもらいお総菜店として再スタートさせる。さらに同じ時期、旦那さん一夫さんと結婚し、婿養子に入って靖子さんを支えてくれた。

娘の夫も妻を支えるために婿養子に

その後1996年、都市開発により駅前から現在の場所に移転。次女・真知子さんと夫・崇さん、3代目夫婦が中心となって店を切り盛りしている。

植野さんが店で働くようになった経緯を尋ねると、崇さんは「結婚して婿に入って、店に入っているうちに忙しさに紛れてそのままずっと…」と話す。

靖子さんの隣に座るのが娘婿の崇さん
靖子さんの隣に座るのが娘婿の崇さん

さらに植野さんが「崇さんはそれまで何をやっていたんですか?」と聞くと、「僕は蕎麦屋で働いていたんですけど…」と明かした。

もともと関西にある老舗のそば店に就職していた崇さんだったが、お見合い結婚を経て上京。しかも、妻の真知子さんを支えるため婿養子に入った。

「お惣菜屋さんとお蕎麦屋さんってやること全然違いますよね?」と植野さん。

店頭にずらりと並ぶ煮物
店頭にずらりと並ぶ煮物

「やったことない所を全部新たに覚えなくちゃいけない、煮物とかあまりしたことなかったので、ここに来てみんな覚え直しました」と崇さんは振り返る。

娘婿の働きぶりに、靖子さんは「すっごく良くやってくれてる、何も言うことない」と感謝した。

そんな靖子さんは店に出ていることが楽しいようで、「引退するとは思ってない、倒れるまでやりたい」と思いを語った。

下町の食卓を支える総菜店には、温かな家族経営の姿があった。

本日のお目当て、越後屋の「炒り豆腐」。

一口食べた植野さんは「豆腐のうまみがぎゅっと凝縮して豆のおいしさが出ている」と感動していた。 

越後屋「炒り豆腐」のレシピを紹介する。