テロ対策で軽視されがちな人権問題
近年、世界のテロ事件数や犠牲者数はアジアや中東では大きく減少傾向にあるが、マリやブルキナファソ、ニジェールなどアフリカのサヘル地域ではアルカイダやイスラム国などを支持するイスラム過激派による活動が活発化し、今日、世界のテロの中心地は中東ではなくアフリカだとする専門家も少なくない。
近年、この3カ国ではクーデタードミノが起き、軍事政権が実権を握り、これまで現地でテロ対策に重視してきた米軍やフランス軍が撤退し、その隙を突くかのようにロシアの民間軍事会社ワグネルのプレゼンスが目立つようになっている。
この記事の画像(7枚)世界の関心事は米中対立やウクライナ戦争、台湾情勢やイスラエル・パレスチナ情勢などに移っているが、諸外国の対テロ対策が長期的に疎かになれば、アルカイダやイスラム国などグローバルなテロ組織の国際的な活動が再び活発化するリスクを忘れるべきではない。
一方、人権という観点からテロ情勢に着眼すると、テロという暴力によって引き起こされる人権問題にも配慮する必要があろう。
ロシアで高まる外国人への警戒感
ロシアの首都モスクワ郊外にあるコンサートホール「クロクス・シティー・ホール」では3月22日、武装した男4人組が押し入り、ホール内にいた観客に向けて自動小銃を無差別に乱射し、140人以上が死亡した。
2002年10月モスクワ劇場占拠テロ、2004年9月ベスラン学校占拠テロ、2009年11月特急列車ネフスキー爆破テロ、2010年3月モスクワ地下鉄爆破テロ、2011年1月ドモジェドボ国際空港爆破テロなどのように、ロシアでは繰り返し大規模なテロ事件が発生してきたが、この事件ではイスラム国が犯行声明を出し、欧米当局や専門家たちはイスラム国ホラサン州(ISKP)の関与を強く指摘し、ロシア当局は実行犯4人がタジキスタン国籍と発表した。
しかし、その後ロシア国内では実行犯がタジキスタン人ということで外国人への警戒感が強まり、移民への風当たりが強くなっている。ロシア治安当局は不法移民の取締り強化の一環で、移民労働者を雇用する企業への立入検査を徹底し、移民労働者が摘発されるケースが増えている。
モスクワの空港では外国人の出国手続きにおける検査が強化され、出稼ぎ労働者としてロシアで10年働いているタジキスタン人男性が書類不備を理由に長時間にわたって足止めされるケースも報告されている。
こういったケースは氷山の一角でしかなく、タジキスタンなどロシア国内で日常的な生活を送る中央アジア出身者とその家族が、仕事場や学校などで脅迫や嫌がらせ、しいては暴力を受けたりしていることは十分に想定される。テロとは全くの無縁であり、純粋に労働に従事し、ロシア経済を支える移民労働者の人権が侵害されていることは大きな問題である。
少数派への風当たり強まるスリランカ
また、2019年4月21日、スリランカでは最大都市コロンボにある高級ホテルや各地のキリスト教会など計8カ所で同時多発的なテロ事件が発生し、250人以上が死亡、500人以上が負傷した。この事件では、日本人も1人が死亡、4人が負傷したことから、国内でも大きく報じられた。
このテロで犯行声明を出したのは、スリランカでは少数派になるイスラムコミュニティー中から過激化したメンバーで構成される組織「ナショナル・タウヒード・ジャマア(NTJ)」で、主犯格だったザフラン・ハシム容疑者(ホテルでの自爆で死亡)は、インド南部やバングラデシュのイスラム国支持者たちと接点を持ち、また、他の実行犯たちの中にもシリアへ渡航してイスラム国に参戦した者、留学中のオーストラリアでイスラム国関係者と接触した者が含まれる。
事件は綿密に計画されたもので、実行犯たちは欧米人が多く集まる場所を意図的に狙い、コロンボにあるキングスバリーホテルやシナモングランデホテル、シャングリラホテルが自爆攻撃の対象となった。
その後、スリランカ国内では飛行機や列車、バスなどのインフラ機能が麻痺し、政府は非常事態宣言を発出し、軍や警察に逮捕令状なしでの逮捕を認めるなど大幅な権限が強化され、インターネット回線が遮断されるなど大混乱が生じた。
しかし、それだけでなく、スリランカでは仏教徒が多数派で7割を占め、外務省のデータによるとヒンズー教徒が12.6%、イスラム教徒が9.7%、キリスト教徒が7.6%などとなっており、事件を契機に国内では少数派のイスラムコミュニティーに対する風当たりが強くなっていった。
テロ事件後、治安当局は「ナショナル・タウヒード・ジャマア(NTJ)」の関係者少なくとも200人あまりを拘束したが、それに反対しているにも関わらずイスラム教徒というだけで逮捕されるケースが多く報告された。
スリランカ西部ネゴンボ近郊では、カトリック教徒の集団がイスラム教徒の経営する2つの店舗を襲撃し、イスラム教徒が所有する三輪タクシーが放火されるなどの被害があった。そして、多数派の仏教徒の中からは過激派のグループを中心にイスラム教徒への暴力や脅迫が横行し、イスラム教徒が経営する露店や住居が仏教過激派によって襲撃されるなどし、イスラム教徒の男性が死亡する事件も発生した。
ロシアやスリランカでは、テロという1つの行為によってテロとは全く無関係の移民や少数派が人権的な被害を受けるケースが多々生じた。
無論、テロという暴力はどんな目的や動機があったとしても決して許されるものではないが、大規模なテロが生じれば必然的に公権力の権限がまざまざと発揮されることは避けられない。しかし、それによってテロとは無縁な一般市民が人権的な被害に遭う恐れがあり、人権という視点からもテロ問題を見ていく必要があろう。
(執筆:株式会社Strategic Intelligence代表取締役社長CEO 和田大樹)