普天間基地の返還合意から2024年4月12日で28年が経過した。フェンスに阻まれた基地の中にある土地には、そこをルーツとする人々の長い歴史が存在する。
一向に進まない返還。無力感と抗う宜野湾市の市民の苦悩を取材した。
返還には条件がある?なんだそれ
宜野湾市の美術館で働く佐喜眞淳さん。28年前の日米による返還合意。当時、佐喜真さんは小学生でテレビで速報が流れたことを記憶している。
この記事の画像(9枚)佐喜眞淳さん:
翌日ぐらいに返還には条件がありますと沖縄に別の代替基地を作りなさいと。なんだそれ!って喜びも何もないですね
1996年4月、普天間基地の全面返還が日米両政府の間で合意されたが、その中では、「今後5年ないし7年以内」と期間が示されるも、「県内への代替施設の建設」など条件が付けられた。
移設先とされる名護市辺野古の工事は、軟弱地盤などの問題を抱えている。
政府は2013年、普天間基地の返還時期については2022年度又はその後と示したが、軟弱地盤の改良工事が必要となり、返還時期の具体的な期日は示されていない。
土地の一部を米軍と交渉し返還を実現
宜野湾市上原にある佐喜眞美術館には「沖縄戦の図」が展示され、平和を学ぶ美術館として全国から多くの人が訪れる。
美術館は空から見ると、普天間基地をえぐるような場所に位置している。
佐喜眞淳さん:
ここは普天間基地に取られていた場所だったんだけど、この美術館を作るために返してくださいと私の父が交渉したんですね。だからこのお墓のちょうど目の前ぐらいに金網があった。
美術館がある場所は、かつて基地の中にあった佐喜眞家の土地の一部を、館長である佐喜眞道夫さんが、約10年に渡りアメリカ軍と交渉し「返還」を実現させた。
一部は返ってきたものの、先祖たちが暮らした土地はフェンスの中に取り残されている。
佐喜眞淳さん:
「新城」っていう村がずっと昔からあったわけですが、新城の人たちはこの辺にお墓を持っていた。ここのお墓も新城の人たちのお墓です。集落はずっと向こうにあって、井戸もある。
戦前、宜野湾の人々が生活していた集落は、今も普天間基地の中に取り残されている。
旧新城村の人々の大切な拝所や、生活の営みを支えた井戸などは年に一度、アメリカ軍の許可を得て、周辺の清掃を行っている。
佐喜眞淳さん:
新城に限らず沖縄はみんなそうですけど、井戸は生活用水を汲む場所であり、聖地、お祈りする場所でもある。戦争のときは、新城の井戸は洞窟に繋がっていて、みんな避難して助かったそうです。
未来を託す子ども達に責任を感じる
先祖たちの歴史が残るフェンスの中は、いつしか「世界で最も危険な基地」と言われるようになり、佐喜眞さんもその歴史を目の当たりにしてきた。
2004年には、沖縄国際大学にアメリカ軍のヘリが墜落。その危険性がまざまざと突き付けられた。
佐喜眞淳さん:
あの煙見た瞬間に、絶対何人か死んだと思って。今までなんで基地を放っておいたんだろうという気持ちになってしまったんです。
佐喜眞さんは繰り返されてきた基地から派生する事故に強い危機感を感じている。
佐喜眞淳さん:
これはもう最後の警告なのかなって。このまま放っておいたらまたいつか起こるわけです。何万回とか何十万回、何百万回飛ばしたら事故は絶対その1回が起こるから。
子どもが生まれ、父となった佐喜眞さんは、繰り返される事故を憂い未来を託す子ども達に責任を感じると話す。
佐喜眞淳さん:
もちろん自分の子どももそうだけど、この辺にもたくさん子ども達住んでいて、もしも、彼らに何かあったらと想像したら、そんな事は絶対に許せない。
無力感を取り払うことからスタート
返還への期日が曖昧なまま時間だけが経過していくことに、佐喜眞さんはもどかしさを感じている。
佐喜眞淳さん:
自分には何かを変える力が無いにしても、本当は何もできないわけじゃない。無力感みたいなものを自分たちは植え付けられているわけだから、まずは無力感を取り払うだけでも、そこからやっていかないといけないなって思いますね。
基地の中に残された先祖の土地と歴史。
佐喜眞さんは返還となるその日が、一日も早く実現する事を願っている。
(沖縄テレビ)