1945年に日米で20万人余りの命が失われた沖縄戦。
このうち旧日本兵としては戦没者の数が1万人を超え、沖縄についで犠牲者が多かったのが「北海道」となっている。
沖縄戦について267回もの特集を連載した亡き夫の記事を携え、平和の懸け橋になりたいと沖縄を訪れた女性の思いを聞いた。
夫が歩いた戦跡を歩いてみたい
2024年3月5日、北海道から一人で沖縄を訪れたのは、78歳の清水籐子(とうこ)さん。
![](https://fnn.ismcdn.jp/mwimgs/5/2/700mw/img_529642e2ed63c2504d4c6a2b936f027b166002.jpg)
籐子さんは旅の目的について「北霊碑(ほくれいひ・沖縄戦で亡くなった北海道出身者のための慰霊碑)に本を出しましたという報告と、夫が歩いた戦跡を巡ることです」と話す。
籐子さんの夫・清水幸一さんは、北海道の新聞社「北海タイムス」の記者として1964年4月から12月までの9カ月間に渡り、沖縄戦についての特集記事を267回にわたり連載した。
![](https://fnn.ismcdn.jp/mwimgs/a/e/700mw/img_ae5e77fe603ca2b1406ca5229770797e122503.jpg)
籐子さんは、書籍化した『あゝ沖縄』の中に、「故郷の冷たい、自分の家の井戸水を飲みたいとか、うじだらけになった兵士が最後に、我が子の姿の幻覚を見て、お父さんもうすぐ帰るからね」といった記述があったと話す。
![](https://fnn.ismcdn.jp/mwimgs/9/8/700mw/img_98384dfbbc70ab3aa3917421de66a00c110273.jpg)
書籍『あゝ沖縄』より:
「子どもを抱きかかえた女がいる。『早く南へ逃げろ』と声をかけ、子どもを抱き上げようとして身をかがめた。プーンと死臭をつく。両の目は穴になっており、ほおは白骨がでていた。」
仲間を思う気持ちをペンに込め 267回の連載記事
旭川で、旧陸軍の教育を担当していた幸一さん。
![](https://fnn.ismcdn.jp/mwimgs/e/f/700mw/img_ef3338586a1bf866bc32c69d98acaf6c87015.jpg)
沖縄戦で北海道の出身者は1万人あまりが犠牲となり、その数は沖縄を除くと全国で最も多くなっている。
犠牲になった仲間を思う気持ちをペンに込め、幸一さんは267回もの連載記事をつづった。
![](https://fnn.ismcdn.jp/mwimgs/5/3/700mw/img_53408736e0598675b07cbff5ee7b455d174648.jpg)
北海タイムスが廃刊したあとも記事を自宅に保管していた幸一さんは、2006年に他界。
残された記事のスクラップを書籍化することで、記事をまた多くの人に読んでほしいと籐子さんは2023年、クラウドファンディングにより幸一さんの命日に出版を実現した。
![](https://fnn.ismcdn.jp/mwimgs/3/e/700mw/img_3ea45837375e982b2c33a7736fba81b9119634.jpg)
兵士の証言や手記を記事にまとめ、取材のため沖縄を訪れていた幸一さん。
![](https://fnn.ismcdn.jp/mwimgs/e/a/700mw/img_ea06d2fd73b93e36de88ba3e4d410fa0134897.jpg)
幸一さんが見た沖縄を自らも歩いてみたいと、以前から交流のあった沖縄戦の遺骨収集を続けるボランティアの浜田哲二さんと律子さんを頼り、慰霊の旅が始まった。
過去からのメッセージが今の沖縄に届けられる
清水籐子さん:
4月1日から12月28日まで267回(の連載)です
沖縄タイムス 新垣綾子記者:
超人的ですね。すごい。一人で267回
![](https://fnn.ismcdn.jp/mwimgs/0/e/700mw/img_0e787248ea3d35cb2ffada2490dcaf6e159087.jpg)
籐子さんはこの日、幸一さんが沖縄を取材したとき交流があった新聞社に本を寄贈したいと訪れた。
清水籐子さん:
沖縄タイムスさんにはすごくお世話になっているんですね
沖縄タイムス 新垣綾子記者:
清水幸一さんのお名前で検索して、いくつかコピーしました。
![](https://fnn.ismcdn.jp/mwimgs/a/8/700mw/img_a88c532db64b035636bd7c272a194fb9186131.jpg)
沖縄タイムスの60年前の紙面、たずね人のコーナーで、北海道の帰還兵がお世話になった県民を探す呼びかけが掲載されたほか、幸一さんの沖縄での取材活動が記事として残っていた。
清水さんは、「この1、2年はウクライナとか、だんだん日本の世論というか、ちょっと変な空気になってきましたでしょ。それで書籍にした方がいいと」と経緯を話した。
60年前の幸一さんに続いて、籐子さんもこの日、取材を受けた。
沖縄タイムス 新垣綾子記者:
沖縄の方にはどういう風に読んでほしいですか
清水籐子さん:
過去からのメッセージですけど、今の沖縄に届けられると思っています
![](https://fnn.ismcdn.jp/mwimgs/a/c/700mw/img_ac0592d06a145f3fd48fd532476da8c9153986.jpg)
籐子さんは、切り抜いた記事を時々読むことがあるが、文章に思いがこもっているため、ざわめきのような声が聞こえてくるような気がして、スクラップブックを抱えているのが苦しかったと語る。
籐子さんはこのあと、遠足や修学旅行でたくさんの学生が訪れる平和祈念資料館にも、本を贈った。
![](https://fnn.ismcdn.jp/mwimgs/a/d/700mw/img_ad53895347fce2c3812b53aa75b1ede2160124.jpg)
平和祈念資料館の前川早由利館長は「体験者もいなくなっている状況で、今後伝える手法というのが証言に頼るしかない。全国から集められた日本兵が一緒になって戦って犠牲になったという実相を、国内外分け隔てなく被害の実相を伝えていくべきだと思いますので、きっとメッセージが伝わると思います。大事に活用させていただきます」と感謝した。
自らの眼で見た沖縄をスケッチして遺族に見せたい
今回の旅で籐子さんには本を寄贈する以外にも大きな目的がある。
![](https://fnn.ismcdn.jp/mwimgs/1/7/700mw/img_1751eb4b2ccee5ff45ba17d2a8953a5d192531.jpg)
幸一さんが記事にした沖縄、あれから60年、いま自らの眼で見た沖縄をスケッチして、遺族に見せたいと考えていた。
![](https://fnn.ismcdn.jp/mwimgs/0/a/700mw/img_0aab1e14661b6812e76252c78cdc6ac4156636.jpg)
清水籐子さん:
遺族も生きてらっしゃいますからね。遺族から「出版してくれてありがとうありがとう」という電話をもらったの。本当に出してよかったと思います
電話をかけた遺族は『あゝ沖縄』の中に父親の名前を見つけた80代の娘だったと明かす。
籐子さんは「関心の薄い道民もいるけど、遺族も生きているし、行動は起こさなきゃならないと思う」と自らの心境を話してくれた。
![](https://fnn.ismcdn.jp/mwimgs/6/5/700mw/img_65cbd3c0a243bdf526c8fed945060c35217273.jpg)
籐子さんは北霊碑の前で、「沖縄で描いたスケッチをもって報告会を開き、沖縄戦、そして平和について北海道から考えていきたい」と誓った。
(沖縄テレビ)