80歳になる歌手の加藤登紀子さんは、1943年に現在の中国東北部の旧満州・ハルビンで生まれ、終戦後、2歳の時に長崎に引き揚げてきた。
2024年3月19日、同じ引き揚げ者の歴史を辿るため、加藤さんは厚生省引揚援護庁の「二日市保養所」を訪れた。

「二日市保養所」へ

1943年に現在の中国東北部の旧満州・ハルビンで生まれ、終戦後、2歳の時に長崎に引き揚げてきた加藤登紀子さん、80歳。現在は歌手として平和を願って歌を届けている。

福岡・筑紫野市には、終戦後、満州に攻め込んできたソ連兵などに暴行され、望まぬ妊娠をした女性に中絶の手術をしていた厚生省引揚援護庁の「二日市保養所」と呼ばれる施設があった。

厚生省引揚援護庁の「二日市保養所」
厚生省引揚援護庁の「二日市保養所」
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極秘の施設だった二日市保養所を、加藤さんが訪れた。同じ引き揚げ者としての歴史を辿るためだ。

加藤登紀子さん:
いままで行く機会がなかったので、本当に「きょうはよい機会を頂けた」と思っていたのね。人には、本当に誰にも言えないような事情が生まれてしまうようなこともあるのよ

「あちらに大きな風呂があって、あれからずっと向こうまで病室があった」と跡地で当時の様子を語る村石正子さん(取材時86歳)。朝鮮半島から引き揚げ後、看護婦として二日市保養所で勤務し、引揚援護活動にも携わった。この場所でほぼ毎日、中絶の手術に立ち会っていたという。

村石正子さん(2014年取材):
(手術する)先生の手元を見ながら、まず子宮口を開けないといけないでしょ。言われなくても堕胎用の器械を差し出すんですよね。それをしてました。ずっと…。あの頃ね、痛み止めとか注射がなかったから手術は生身でね…。誰も痛いとか、ひとりも言わなかった。ただうめき声だけ。唇がちぎれるくらい…

「戦争が何かを解決してくれたことはない」

二日市保養所の跡地にぽつんと佇む水子地蔵。小さな祠(ほこら)に収められている。「ほんとうに小さなお地蔵さんですね」とゆっくり歩み寄った加藤さんは、手を合わせ、静かに祈りをささげた。

二日市保養所の跡地にある水子地蔵
二日市保養所の跡地にある水子地蔵

加藤登紀子さん:
ここでいろいろな思いがあって、自分のふるさとに帰る前に自分自身を清算していかなければならない女性の気持ちは、いろいろだったと思いますよ。それぞれね。だけど、やはりここできちっとして、これでちゃんと未来が生きられ、「これからは生きられる」と、そういう「胸を張って帰れる」と、そういう明日をつないだ場所であるというふうに私は思います

この場所で手術を受け、心と体につらい傷を負った多くの女性たちに思いをはせた加藤さん。同じ引き揚げ体験者として、加藤さんの心には深い悲しみがよぎり、同時に強い思いが改めて頭をもたげていた。

加藤登紀子さん:
戦争が何かを解決してくれたこと、何かをやり遂げてくれたことはないんですよ。日本の戦争も勝つために頑張ったかもしれませんが、最後に軍隊の人たちが言った言葉のなかには、「日本を守るためには最後の一人の命まで失われてもよい」という感覚があったと思います。そういう戦争は、一体何なんですかね…

「歌の力」信じメッセージを届ける

そして加藤さんは、一人の「歌い手」として、メッセージを届け続ける「覚悟」を語った。

加藤登紀子さん:
歌にできることは何か分からないけど、それぞれの人が自分の心に持つことを、強く持つことができるための心の在り方というか、それを支えるというのが歌の力だと思うんですよね

百万本のバラの花をあなたは、あなたは、あなたは、見てる

加藤さんの代表曲「百万本のバラ」は、ヨーロッパのラトビアの子守歌が原曲で、旧ソ連諸国でもヒットしたという。ロシアとウクライナの間でいまも続く戦争。終戦と平和の訪れを誰もが願う日々が続いている。

加藤さんは5月に再び福岡を訪れ、コンサートで平和を願って歌を届ける予定だ。

(テレビ西日本)

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